2025年3月7日金曜日

ヘレスのフェスティバル14日目イスラエル・ガルバン『ラ・エダ・デ・オロ20周年』

 

© Festival de Jerez/Esteban Abión


昨年秋のセビージャのビエナルの後ということもあって、今年のヘレスはすでにビエナルで観ていた作品も多く、そんな中、楽しみにしていたのがイスラエルの『ラ・エダ・デ・オロ20周年』。20年前のヘレスのフェスティバル、2005年2月26日19時、サラ・コンパニアで初演されたあと、世界各国で300回以上上演され続けたロングセラー作品。イスラエルの他は歌い手フェルナンド・テレモート、ギタリスト、アルフレド・ラゴスだけというのも、カホンやフルートなども入ったグループでの伴奏が普通、といった当時、帰ってとても新鮮だったし、この後、この構成で公演する他の踊り手も出た記憶。当時すでにセビージャのマエストランサ劇場で公演するなど、注目の新進気鋭の踊り手だったのに、メイン会場のビジャマルタではなく、小さな会場ということで当然満員。余分の切符を持っている人がいないかと、会場に入る人に声をかける人も入り口にたくさんいたのを覚えています。新しい試みとかをする人の会場はコンパニア、という説明が主催者側からあったということで、それに反発して、ではないけれど、じゃ、フラメンコ・フラメンコな作品を、ということでフェルナンド・テレモートに声をかけたということだったと思います。ここら辺、当時のインタビューで聞いた話なのですが、その記事が今、手元にないのでちょっとうろ覚えなところもあるのですが。フェスティバル側から聞いたのは集客の問題もあり、舞踊団公演と地元出身のアルティスタはビジャマルタ、モデルノはコンパニア、という意識だったのだと思います。ちなみにイスラエルの公演の日のビジャマルタはマリア・デル・マル・モレーノだったし、同年ベレン・マジャとラファエラ・カラスコのコンパニア公演の日はメルセデス・ルイスでした。この地元出身舞踊家優先の掟?は今も健在で、ある意味、このフェスティバルの特色かもしれません。もちろん、イスラエルの公演は大変素晴らしいもので、いろんな曲種がシームレスに演奏され踊られていくというのにびっくりしつつもめっちゃフラメンコな正統派フェルナンドの声にイスラエルの、前衛的とも評される動きやポーズが、心地よくはまって、何度もオレが出たのでありました。フェルナンドが病気になり、亡くなってからはダビ・ラゴスが歌うようになり、これも何度か観ました。

その名作が、出演者を変えて公演というのが今回の公演。すでにニームのフラメンコ祭などでも上演されています。昔、彼のクラスでソレアの歌振りを振り付けた後、違う歌い手のcdをかけて、それで踊りがどう変わるか、というのをやったという話があって、当然、歌い手やギタリストが変われば踊りも変わるはず、と思って楽しみにしていたのです。

イスラエルは髪に花をつけ、丈が長めのシャツに半ズボン。以前のスリムなズボンでの装いとは違います。よりモデルノ?アナーキー?

曲の構成、作品の流れは元のものとそんなに変わっていないのではないかと思います。2018年に妹パストーラが踊ったこともありまして、その時の評に私はこう書いています。

ソレアやカーニャ、マラゲーニャにベルディアーレス、ファンダンゴ、マルティネーテにシギリージャ、タンゴ、ファルーカ、アレグリアス、ブレリアなどなどいろんな曲が続いていく。

今回もそんな感じ。ポピュラーソングをフラメンコに取り入れるのが上手いラファエルということもあってか、パコ・デ・ルシアの曲やパソドブレ、ススピロ・デ・エスパニャなどが挟まれたり。

© Festival de Jerez/Esteban Abión


でも歌が。マリアはウトレーラ出身。フラメンコも演奏するクラシックのギタリストで歌い手でもあり、オランダの大学のカンテ教授。これまでもイスラエルの作品などで何度か観てはいたのですが、いや、こういう、真正面からのカンテ、なんの飾りもないばに引き出されると、色々不足が甚だしいというのが見えてきてしまうのです。いや、そのカンテはそうじゃないって、と突っ込みたくなるところがたくさん。彼女には荷が重すぎたのではないかと。フラメンコのメッカ、ヘレス。シギリージャやソレアをこの街の大舞台で歌うには実力不足だったと思います。全方面に失礼な言い方をするとスペイン以外の国出身のカンテを勉強している人、みたいな歌い方だったのであります。なんというか、楽譜見て歌っているというか、音符通りというか、カクカクしてる。コンパスの中の自由さがないというか。ドからミにいくのに途中をすっ飛ばす感じ、というか。説明するのは難しい。でも彼女を選んだのはイスラエルだし、とは思うのですが、なぜ? なぜ彼女? 本流のフラメンコを壊した先を見据えている?

© Festival de Jerez/Esteban Abión


歌に引きずられた、ということはないとは思うのですが、イスラエルもなんかいつもの私の好きなイスラエルじゃない。フラメンコ曲でも曲がなくとも、コンパスが回っているのを感じられ、微妙な間合い、呼吸にオレを連発せざるを得なくなってしまう、あのイスラエルじゃなくて、別人のよう、とまでは言いたくないけど、なんか肩透かしを食らったような。みんなに賞賛されるのに飽きて、わざとそうしてるのかな、と思ったり。これがこの日だけのことなのか、それとも何かが変わったのか。それを知るためにも今後も見続けたいのは確かだけど。

踊り自体は昔ながらのイスラエル的なポーズや動きもあるけれど、よりボーダーレスになっているという感じ。床に座って、靴音だけでなく手で床を叩く音を組み合わせるなんていうのも面白い。それは進化なのだろうけどそうすることで、彼の中のフラメンコを熱愛する私のように、置いてきぼり感を味わう人もいるのだな、と。で、それはかつてイスラエルのストレートなフラメンコを愛した人が、独自の世界についていけなくて酷評したのと同じなのかもしれないな、などとも思ったり。

うーん。で、今、昨日のビデオとかつての公演のプロモーションビデオなど見比べてみました。やっぱ、全然違うように見えるんですが、どうですか? なんか、昨日のはわざとずらしているような気までしてきた。うーむ、謎だ。やっぱなんらかの意図があるのかな?






いや昨日も上手で見せた回転の最後のとことか、タンゴのちょこっとしたとこ、細かい足とかにおおっとは来ましたが。(ビデオにはありません)

ちなみにカーテンコールでの役割変更も健在で、ラファエルがイスラエルの振りを真似したところが最高でありました。下の写真の後、最後の手をヒラヒラさせるとこが良いのです。


© Festival de Jerez/Esteban Abión

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