何から書いたらいいのだろう。とにかく最高の舞台だったのだ。
フラメンコ!
その強さと偉大さを改めて感じさせてくれるような、そんな舞台。
舞台の上には二人の踊り手、三人の歌い手とギタリスト。それだけ。舞台装置はなくても、オルガ・ガルシアの照明が、装置以上に、それぞれの場面のお膳立てをして、それぞれの曲をより魅力的に見せてくれる。シルエットや逆光の使い方。細い細い道。照明ってほんと大切。装置作ったりするより、いい照明家にお金かける方が絶対効果的だよ。
伝統的なフラメンコ舞踊のリサイタルのように、フラメンコ舞踊を数曲続けて踊っているだけというものではない。プログラムを読むと、それぞれの場面に意図というか、背景というか、設定というかがあるわけなんだけど、それを知らずとも、こっちに伝わってくるものが確実にあるのだ。フラメンコを通して伝える何かもある。でもそれよりもフラメンコそのものの、ルシア“ラ・ピニョーナ”のフラメンコの力が強いのだ。あるがままのルシア、ルシアのフラメンコ。
舞台の流れを思い出してみよう。
舞台を行き交う人々がすれ違い、見かわす、出会い頭の化学反応。相手役はジョナタン・ミロ。ヤン族のような、ちょっとやばい感じの色気のある男。女は闘牛士のようなピッタリした膝までのスパッツ、片足には闘牛士がはくピンクのストッキング。タパオ、音を抑えたギターのリズムとピト。
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©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
フシアピンクのバタ・デ・コーラでのアレグリアス。アキ・マンド・ジョ、私が決める、的な思い切りの良さ。
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©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
恋の駆け引きは闘牛士と牛の駆け引きに似ている。どうかわすか、いかにとどめを指すか。
シレンシオ。官能は本能。
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©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
巻きスカートに着替え、駆け引きは続く。カンティーニャス、カラコーレスなど。
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©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
カーニャのラメントやナナが嵐の後の静けさを思わせる。
カルメン・アマジャのようなサパテアードに始まるマルティネーテ。
そしてレースで透けるスカートでのタンゴ。
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©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
コルバチョが歌うミロンガの気だるい雰囲気を抜けるとシルエットで浮かぶルシア。大地の女神のようにすくっと立つ。
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©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro
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そして始まるファルーカ。
ファルーかの伝統的な形とオリジナリティが完璧な形でくみ合わさっている。
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©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
とここで突然、ルンバやボレロでディスコフィーバー的な楽しい場面となり、ルシアもラップ。やだ、このディスコ行きたい。
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©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
ファンダンゴの最後はジョナタンが元国立バレエだけのことはある見事な民族舞踊技をみ
せ、
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©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
最後は上手奥、光の中から現れたルシアによるソレアがすごかった。
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©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
ソレア、本物のソレア。フラメンコのソレア。歌を踊っていくルシア。
レトラをマルカールして、レマーテして、という昔ながらのソレア。でもフラメンコはそれだけで必要十分、物語も言葉も必要ない。見ているうちに演者の中にある物語に見ている側のん心の奥底に眠っていた言葉にならない感情が呼び起こされる感じ。
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©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
作り物ではない本物のフラメンコ。全てを超えて直接心に響く。
見たかったのはこれなんだよね。
コンテンポラリーへの接近やコンテンポラリーダンサーなど他ジャンルのアーティストとの共演、演出家の起用などで、自分の表現を探そうという試みが悪いわけではないし、それも意味があることだとは思う。けれど、外面にとらわれて見失ってしまっているものはないのだろうか。
フラメンコはそれだけで必要十分なものだから、フラメンコの中を、そして自分自身を奥深く探索していくことで見つけられるものがあるのではないか。その方がずっと大きく、価値があるのではないだろうか、なんて思えてくるのでありました。
終演後、嬉しくてウサギのようにぴょんぴょん跳ねて、「でも作品としては」云々、言ってくる友達の言葉は今ききたくない、と断っていた私ですが、劇場のバルにやってきたルシアに感動を伝えようとした途端、思いもかけず号泣。言葉にならない。そんな自分にびっくり。
舞踊も音楽も言葉にならないものを伝えるものなんだよな。。。
それにしてもギターのラモン・アマドール(美しいファルセータだけでなく、ソレアの伴奏でお父さんそっくりの強さ、ぐいぐい押す感じとか出てきてびっくり)、歌のマティ(サングラスかけてのdjマティで電子打楽器も操ってた凄腕だけど、ソレアの歌が良すぎて悶絶)、
ペチュギータ(今まで聴いた中で一番良かった、テンプラオで重みもあって)、`(ミロンガの軽さがうまい)コルバチョというミュージシャンたち、ジョナタン、そし主役ピニョーナ。いいアーティストが集まったからといって必ずしもいい舞台にはならないのがフラメンコの難しいところだけど、ラファエル・エステベスとバレリアーノ・パーニョの演出は、フラメンコの魅力を、ルシアの魅力を見せることに重きを置いていて、確かなサポートを感じさせた。
ヘレスで見たアルフォンソ・ロサの公演といい、この作品といい、主役の新しい顔を引き出し、フラメンコそのものをみせ方でより魅力的なものとする、彼らの手腕にも脱帽。
あー満足満足。