8月27日マノロ・サンルーカルがヘレスの大学病院で亡くなりました。78歳でした。腎不全で入院していたそうです。
パコ・デ・ルシア、セラニートと共に日本ではフラメンコ・ギターの三羽烏と言われ、現代フラメンコ・ギターを牽引してきた一人。多くの録音、作品を残しただけでなく、コルドバのギター祭では長年教授活動も行い、その門下にはビセンテ・アミーゴ、フアン・カルロス・ロメーロら多くのソリストたちがいます。オーケストラとの数多くの作品や、スペイン国立バレエの舞踊作品『メデア』など、フラメンコ・ギターの可能性を大きく広げていきました。
ハエンからコルドバ、セビージャ、カディスとアンダルシア4県を流れるグアダルキビル川が大西洋に注ぐ町サンルーカル・デ・バラメーダのパン屋に生まれ、父にギターの手解きをうけ、地元のアフィシオナードの歌伴奏で腕を磨き、10代でフラメンコ史上最も偉大な歌い手、ニーニャ・デ・ロス・ペイネスの伴奏もしたといいます。
マドリード上京後はタブラオ、ラス・ブルハスなどで活躍。この頃から伴奏だけでなくソロでの活動も始め、多くのアルバムを録音。74年のカバジョ・ネグロのヒットで広く知られるようになりました。
1984年にはスペイン国立バレエの『メデア』が初演。日本でも何度も繰り返し上演された不朽の名作ですが、日本では録音が使われていましたが、初演を始め、スペインなどでは彼はオーケストラピットから生演奏で伴奏しています。その時、サブ・ギターを弾いていたのはビセンテ・アミーゴでした。
私が初めてマノロに会って話をしたのも、確か91年、ロンドンでの国立バレエ『メデア』公演の時でした。マドリードの自宅に訪ねてきた多くの日本人ギタリストたちの話など、懐かしそうにしてくれました。マノロには『ハポン、シエンプレ、ハポン』 という曲があるほどの親日家でもありました。この曲の入っているアルバムには『カトウサン』という、タブラオ、エル・フラメンコの当時のマネージャーへの曲も収録されていますし、エル・フラメンコでのライブ録音のレコードもあります。
1988年には闘牛をテーマにした『タウロマヒア』を発表。
このアルバムの曲たちも、ホセ・アントニオやメルセデス・ルイスが舞踊作品として振り付けています。
いつまでも胸に残る音楽。。。偉大な音楽家はまた、教授活動にも意欲的で、多くのギタリストたちが彼の元から巣立っています。サンティアゴ・ララやダビ・カルモナも彼のサブを弾いていました。
数年前に舞台からは引退しましたが、去年、アントニオ・マルケス舞踊団『Medea』公演に姿を見せるなど、お元気でいらっしゃることと思っていたのに残念です。
サンルーカルの町は三日間、喪に服すとのこと。
今頃、親友、パコ・デ・ルシアと天国で再会しているのかな。
ご冥福を祈ります。2000年フランスのフェスティバルで |
映画『フラメンコ』のプレミア後のパーティーで |
2010年ラ・ウニオンでのコンサート |
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