2019年2月28日木曜日

へレスのフェスティバル6日目 バネサ・アイバル『シエルペ』

19時からサラ・コンパニアでは、ハエン県生まれでグラナダのコンセルバトリオやセビージャのアンダルシア・ダンス・センターに学んだというバネサ・アイバルの『シエルペ』。
蛇をテーマに見せる舞台は、コンテンポラリーダンスをよく見ているという知人は絶賛。
でも私は辛かった。無理。

無伴奏の民謡みたいな歌に始まり、暗闇の中に動く物体。床を這いずり、
© Javier Fergo / Festival de Jerez
レースのような鎖帷子のようなものを引きずってうごめく。
トリージャやペテネーラなどと電子音楽、ソプラノ。雑多な猥雑さ。

© Javier Fergo / Festival de Jerez

© Javier Fergo / Festival de Jerez
 ギタリストに逆立ちで絡みついたりしたかと思ったら
© Javier Fergo / Festival de Jerez
 大きな帽子でタンゴ・デ・ピジャージョ。ユーモアのつもりなのか何なのか。
意味も分からなければ、美しくも楽しくもない。そしてシギリージャ…
© Javier Fergo / Festival de Jerez

これまでにイスラエル・ガルバン、ベレン・マジャ、エバ・ジェルバブエナ、ロシオ・モリーナなどなど、色々な踊り手たちが様々な試みをしてきていて、あれはフラメンコじゃなくて、コンテンポラリーダンスだ、とか言われてきているわけだけど、これに比べたら全然フラメンコでございます。
この同じサラ・コンパニアでベレンとラファエラ・カラスコが踊った『フエラ・デ・ロス・リミテス』とかも、散々言われてたよなあ。私大好きだったけど。

なんで、バネサの舞台が無理だったかというと、オレ!の瞬間が皆無なのであります。
残念。

イスラエルでもベレンでもエバでもロシオでも絶対あるオレ!の瞬間。
それはちょっとした間の取り方やコンパス感だったり、形の美しさだったり、見事な超絶技だったりするのだけど、この人にはない。
なんというか、体操みたいなのであります。マリア・パヘスばりに手が長くて、細くて、それこそ蛇みたいなんだけど(あ、蛇に手はなかった!でも手も蛇みたいだからいいのか)、コンパスを外しているわけではないのだけど、オレ!を呼ぶ絶妙な間合いは皆無。
形も汚いわけではないけれど、ため息が出るほど美しいわけでもない。

色々工夫をして作品としてきちんと仕上げています。そこはもちろん評価します。
きっとこういう作品の需要もあるのでしょう。
でも意味がわからん。全部の意味わからんでも、あ、美しい、とか、すごいな、とかいうのあれば、そんなのどうでもいいんですが、感じるものも、伝わるものも何もない。ただただ退屈。何を伝えたいのか、何がしたいのか全くわからない。

フラメンコギターもカンタオールもいるけれど、曲がフラメンコならフラメンコなのか。
サパテアードも踏むけれど、サパテアードすりゃフラメンコなのか。
人は何を基準にそれがフラメンコかそうでないかを決めるのか。
イスラエル見てると頭に浮かぶ命題がこの日も浮かんだ。
でもイスラエルとの絶対的な違いは、イスラエルの動きにはコンパスを感じ、彼女の動きは感じられないということ。機械的に見えてしまうのだ。

先述のコンテンポラリーをよく見ているという知人は、先日のクリスティアン・ロサーノを、コンテンポラリー知らないくせにコンテンポラリーして、と言って怒っていたが、私はクリスティアンの舞台はコンテンポラリーというより、民族舞踊や現代スペイン舞踊、フラメンコと様々なアプローチがあったと思うし、何より、美しい形や、ゆっくりと回る回転など、オレ!の瞬間が沢山あったのだ。

観客それぞれ好みは違い、演者それぞれの好みも違う。
演者は皆それぞれ自分の方法を探していく、
残念ながら彼女と私は合わない。それだけのことだ。

なお、歌い手で出演していたトレメンディート(トレメンディータの弟)がムイ・フラメンコな深みのあるいい声をしています。研鑽つめば光りそう。
ギターとソプラノからフラメンコまで歌いバネサとの絡みも見せる、歌手でダンサーで女優でもあるという人とギタリストも共演していました。


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