2015年9月23日水曜日

サラ・バラスのこと

9月21日、22日の両日、渋谷、シアターオーブで行われたサラ・バラス・フラメンコ舞踊団「ボセス」公演でお仕事をさせていただきました。

スペインでフラメンコの公演やニュースを追ってお知らせしたり、解説を書いたりのジャーナリスト/ライターとしてのお仕事とともに、フラメンコ公演やプレス取材などの通訳もしておりまして、今回はその両方でのお仕事です。

サラとはじめてあったのは1990年。彼女がホアキン・グリロとともに新宿「エル・フラメンコ」に出演していたときのこと。一時帰国中にパセオの取材で訪れたのが最初だったでしょうか。エル・フラメンコの50年の歴史の中で、おそらく最も平均年齢の低いグループで、ショーの最後には出演者の名前とともに年齢を言っていたのを思い出します。
「サラ・バラスちゃん 19歳」というように。実力はまだまだだったけど、いわゆる華がある、という感じ。ほかの子とはどこかが違っていました。パコ・デ・ルシアがトリオで来日したり、ガデス舞踊団も来日したり、と、ちょうどいいアルティスタの来日とあたり、たくさんのアルティスタとの知己をえたそうです。私も夏にビセンテ・アミーゴとエル・ペレの通訳として一緒にエル・フラメンコを訪れたのを覚えています。新宿の店で、エル・フラメンコの宿舎で過ごしたひととき。楽しかったなあ。

その後、スペインでも、何度か会う機会がありました。1992年セビージャ万博のときも、アンダルシア館のタブラオにショーをみにきていた彼女と偶然ばったり会ったように覚えています。 その頃からハビエル・バロンとコンビを組みはじめ、94年のビエナルに初出演。間もなくハビエルと再び「エル・フラメンコ」に出演するためにまた日本へと旅だっていきました。

その日本でも再会します。野村眞里子さんプロデュースのメメ・メンヒバル公演、パコ・デ・ルシア・セクステット、そしてビセンテ・アミーゴ公演と続いた94年秋から冬。日本滞在中の私はタブラオに通い詰めました。ハビエルのタラント、サラのアレグリアスなどショーのレベルもたいへん高く素晴らしく、堪能しました。すっかり仲良くなって、休みの日にはディズニーランドに行ったり、ほかのスペイン人アルティスタたちと遊んだり。
もちろん彼女の方がずっと年下だけど気分は同期。 フラメンコのアルティスタではじめて、フラメンコ以外の話、こどものときの話や家族の話などいろいろ話せた人です。
フラメンコ舞踊の腕はもちろん、90年の初来日のときとは格段に上手になっていましたが、それでも普通の感覚をもった女の子でもありました。


帰国後、マドリードに住みはじめた頃も何度かご飯を食べたり、飲みに行ったり。
一緒にカフェセントラルにジャズのライブを観に行ったり、カンデーラに飲みに行ったり。タブラオ、カルボネーラの上に借りた家に遊びに行ったこともありました。
どんどん彼女はアルティスタとして大きくなっていき、舞踊団を結成し、テレビなどでも活躍するなど、そのスターぶりはまぶしいばかり。でもたまに会うといつも通り、あの明るい笑顔で迎えてくれます。

2002年に実現した、舞踊団での来日公演も同行しました。2005年秋の来日公演でも通訳をつとめ、そして今回。通訳として一緒にスペインからやってきました。

十年ぶりの日本はサラにとって思い出をたどる旅でもありました。エル・フラメンコ、新宿、ラーメン、渋谷、劇場、友だち、キムチ、ネオン、人ごみ、居酒屋。。。
この町で知り合ったアントニオ・ガデスや親交を深めたパコ・デ・ルシアの思い出はそのまま作品「ボセス」につながります。

初日のオープニング、パコの「愛のうた」が流れてきただけで涙があふれたのは、そんな思いもあったのでしょう。シギリージャを終えても号泣。あふれる思いがとまらない。あのとき、パコはそこにいたと感じたのは私だけでしょうか。
見事に舞台をつとめあげ、アンコールでどうしても観客に話したいということで、突如袖にいた私がよばれました。通訳は裏方で舞台にでることはまずないのですが、迷わず出て行ったのは彼女の思いを伝えたいということだけで。

サラは自分のキャリアの本格的なスタートとなった国、日本に、彼女のフラメンコの精神的な師であるガデスやパコに会わせてくれた日本に、そしてフラメンコを愛してはぐくんできてくれた日本に、心からの感謝をしている、それを伝えたかったのです。

entregarエントレガールという言葉があります。渡す、ゆだねる、という意味ですが、彼女の舞台はエントレガールそのもの。自分をぜんぶ観客に差し出す、という感じ。だから言葉がわからなくても、フラメンコのことなどなんにもわからなくても、伝わってくるのです。彼女のエネルギーが、彼女の思いが。

久しぶりに一緒に仕事をすることができてとても楽しい数日間でした。











2 件のコメント:

  1. シアターオーブでのその公演で、恭子さんが呼ばれて出て来たのを見ました。「あうん」がわかる仲なのだろうなーと、感じました。サラ・バラスのすばらしい音楽性と、センチメンタルだけど熱い、フラメンコの真髄を改めて感じました。時々思い出すラストの挨拶のシーン、もしやと思って見に来たら、こちらにやはり書いてありました。ありがとうございます。今後も楽しみにしています。  一人のひよっこより

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    1. 舞台を観ていただき、またこちらも読んでいただきありがとうございます。サラのフラメンコの先輩たち、そして日本への思いを受け取っていただきうれしいです。サラはまだ自分がひよっこだったときに優しく助言してくれたりしたガデスやパコにはとくに思いが強く、彼らと親しくなった日本だけに、胸がよけいに熱くなったのだと思います。パコもきっとあの場に来ていた、そう思っています。またどこかでお会いできますように。

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