2024年3月7日木曜日

ヘレスのフェスティバル13日目ウルスラ・ロペス『コメディア・シン・ティトゥロ』

 前アンダルシア舞踊団監督ウルスラ・ロペスが、監督退任後、初めての作品を初演。監督時代の作品『蝶の呪い』の続編とでもいうべき作品。公演は彼女の名前で、だけれど男4女4の8人のダンサーが彼女と共に繰り広げるフラメンコの舞踊の歴史の絵巻みたいな作品。フラメンコだけでなく同時代のモダンダンスなども取り入れてソロで群舞でとバラエティに富んだ形で見せていく。無題の悲劇というタイトルはロルカが暗殺される前に書いていたタイトル。そこにロルカがかいた大天使がフラメンコのフリルのドレス、という記載からの発想でフラメンコドレスが空に上がっていくオープニング。そのドレスが最初、花に包まれた棺に見えるのが凝っていて面白い。でもこれ、記者会見でタイトルの由来聞いていた私にはわかっても他の人にはわからないよね。

©︎Esteban Abión/Festival de Jerez

以降、ビセンテ・エスクデーロのシギリージャ、グラン・アントニオのマルティネーテなど、フラメンコの歴史を語るのに欠かせない伝説の巨匠の作品に始まり、

©︎Esteban Abión/Festival de Jerez


モダンダンスのホセ・リモン/ドリス・ハンフリーの『エル・ジャント』、マッツ・エックの『ベルナルダ・アルバ』なども挟みながら、グイトやファルーコのソレア、ガデスの『血の婚礼』のラストのストップモーションのような振り付けなども挟みながらマリオ・マジャの『カメラモス・ナケラール』などの作品まで網羅。ただ、ロルカ作品に由来するものが多いとはいえ、全部ではないし、年代順というわけでもないので、ちょいカオスな気もする。

ウルスラが真紅のバタ・デ・コーラとマントンで踊ったサエタは見事だったけど。


©︎Esteban Abión/Festival de Jerez

©︎Esteban Abión/Festival de Jerez


©︎Esteban Abión/Festival de Jerez

グイトやファルーコのソレア、と言った素晴らしいフラメンコの振り付けを他の人が踊ることで後世に残していくことは悪くないと思う。ガデス舞踊団がそうだよね。ま、本家知ってるとここはもうちょっと足伸ばして、とか思うことがないじゃないけど。ギターでも、ハビエル・コンデがやってますよね、過去の名作を今の技術で演奏っての。でもこの作品はいろいろ詰め込みすぎて、整理が追いつかない。

歴史を語るのでも年代順にするとか、テーマで分けるとか体系的なものがあるといいだろうし、歴史的な振り付けをそのまま踊るのではなく、印象的なポーズを使ってそこからオリジナルにして過去と現在を照らし合わせるいくとか、うーん。なんかちょっと腑に落ちないというか、納得しきれないとこもあるけれど、前作同様、力仕事見せていただきました。

あ最後になったけどアルフレド・ラゴスのギターとプロジェクトロルカ(パーカッションとサックス)好きです。歌のペラーテとセバスティアン・クルスもコントラスト効いてて良かったし、舞踊団メンバーも頑張ってました。


























2024年3月6日水曜日

ヘレスのフェスティバル番外編その4『デ・ハポン・ア・ヘレス』

ラ・グアリダでの恒例?日本からヘレスへ、公演。
今年は7人が出演ということでプレセンタシオンもフィン・デ・フィエスタもなく、参加者も一人7分ということで、持っている振り付けの一部を削るなどして出演。みんなきちんとそこらへんちゃんと守っていたのが日本人ですね。ずるずる長くしちゃう人とかいそうなのに。

トップバッターは景山綾子。シンガポール在住で、今回の出演者の中で最もキャリアも浅い。
カンティーニャ。踊るのが楽しくてたまらないというような笑顔が素敵。


二番手、山下美希はタラント。踊り始めると顔つきも変わる。力強く、ソブリオ地味で、どこか哀愁の、タラントという曲のキャラクターをよく理解して踊っている。エンリケが紹介で、「僕は好きなんだ」と言った意味がわかった。これは好きでしょ。


宇根由佳は去年、コンクール優勝したグアヒーラ。途中、アバニコをパルマを叩いていたフアン・ディエゴに渡したのだけど、その受け渡しがすごく良かった。


荒濱早絵はソレア。エンリケの紹介、で美人、と何度も言っていたけれど、綺麗なだけじゃない。ちゃんと歌を取り込んで表現している、という感じ。初めて生で見たけどまた見たいです。

安井理沙はティエント/タンゴ。美しいマノの表情が印象的。

スイス在住林結花はシギリージャ。風格が出てきた。重みのあるシギリージャを丁寧に踊った。

オオトリを務めたのは松下幸恵。ベテランならではセンシビリダでタラント。


この公演の立役者、エンリケ・エル・エストレメーニョとニョニョ。


出演者にとってはクラスに行くよりも深い勉強ができたひと時だったに違いない。ありがとうございます。
 

ヘレスのフェスティバル12日目フランシスコ・イダルゴ『モスカ・イ・ディアマンテ』

コンテンポラリーダンスとフラメンコ。

伝統的なフラメンコにない動きをするとコンテンポラリーと言われる。

コンテンポラリーダンスを、形にとらわれない自由な表現の舞踊とするなら、そうなのかもだけれど、元々コンテンポラリーという言葉は現代の、という意味なのだから、今を生きるアーティストたちによるフラメンコもある意味コンテンポラリーなわけで。

アーティストたちが自分の表現を探していく上で、従来の伝統的なフラメンコだけでは表現できない場合、他の方法、文法、作法、技術を使うのは自然なことなのだろう。こだわりを捨ててより自由に。

そしてそれがフラメンコそのものをよりよくしていく、よりよく見せていくということもたくさんあるのだな、と。

そんなふうに思った公演でした。はい、端的に言ってすごく良かった。

音楽も、舞踊も、コンテンポラリーダンス的なアプローチも、彼が踊るフラメンコを際だて、かつ補完していた。そんな作品。


作品の詳細を順に追うとこんな感じ。

開演の15分前からそれは始まっていた。

ジャケットを着込んだフランシスコが、会場であるアタラジャ博物館のパティオに現れる。

どこも何も誰も見ていない、狂人のような目。ゆっくりと会場へと歩いていく。


©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

舞台へと向かう通路で床に倒れこみ、たくさん着込んでいたジャケットを一枚一枚脱いでいく。

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez
やがてフェスティバルのジングル、開演アナウンスが流れると、舞台に上がった。

舞台の上にはプラスチックパイプで作られた木。

黒いタンクトップ、腰には作業用ベルトのようなものをつけている。裸足。アントニア・ヒメネスのギターがつまびかれると、舞台奥にある椅子にかけたコートへと向かい、椅子ごとコートを着てアントニアの前へ。椅子に座って靴を履き踊る、タランタ。

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

歌い手ミゲル・オルテガが登場。椅子の上に上がり歌うのはタラント。ここまでコンテンポラリーというか、フラメンコ・フラメンコではない自由なアプローチが多かったのだけど、踊っているのはフラメンコ・フラメンコ。男らしい(とか今のご時世では言ったらダメなのかしらん?)力強く、大地と繋がっているようなタラント。


©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez
下手に登場した四角いフレームドラムを叩くイバン・メジェンとサパテアードの掛け合いも面白い。
再び登場したアントニアが手にしているのはエレキベース。タンゴ・デ・マラガ。ベースとフレームドラム、歌で踊る。

ドラム用ブラシを両手に登場たイバンがフランシスコを楽器に叩きまくる。中身の詰まったいい音がする。そのリズムで踊っている。打楽器奏者も踊りの一部?面白い。

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

木の周りをぐるぐる周り、フランシスコ自身が歌うベルディアーレス。うまい。髭に白い花。

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

マラゲーニャのギターソロ(アントニアが素晴らしい!)から
©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

ロンデーニャやファンダンゴ・デ・ルセーナなど踊り、フィナ・エスタンパというスペイン語圏では有名な曲を歌う。

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

 最後は木を解体して終わる。
それだけでなく、上着を脱ぐことや椅子を背負うこと、体を叩かれること、きっとさまざまなことに意味があるのだろう。それを想像するのも楽しい。わかるわからないではなく、彼のフラメンコ、フランシスコという人の中にあるものが伝わってきて、気持ちよく夜道を帰ることができた。いやあ、良き夜だ。

Francisco Hidalgo Cía. Flamenca from Festival de Jerez Televisión on Vimeo.

2024年3月5日火曜日

ルイサ・オルテガ逝く

 ルイサ・オルテガが3月4日、エストレマドゥーラ地方のアルメンドラレホの病院で亡くなりました。92歳でした。20世紀のフラメンコを代表する歌い手の一人、マノロ・カラコールの娘で、自身も歌手として活躍。ニーニャ・デ・ロス・ペイネスの甥であるピアニストのアルトゥーロ・パボンと結婚。ファミリーでのレコードなどもあります。

12日のセビージャでの彼女へのオマージュ公演を目前にしての死でした。

ご冥福をお祈りします。







ヘレスのフェスティバル11日目ベアトリス・モラーレス&アグヘータ・チーコ『デ・ラ・ナトゥラレサ・デル・アモール』

ヘレス出身の踊り手ベアトリスとドローレス・アグヘータの息子、すなわちマヌエル・アグヘータの孫で、アグへータ・ビエホのひ孫。歌い手でギタリストで弾き語りのシンガソングライターというちょっと不思議な存在、アントニオ、アグへータ・チーコ。公私を共にするパートナーが二人で初めてのヘレスのフェスティバルに登場したのは2年前のサラ・コンパニアでの公演だった。私はみに行けなかったのだけど、そこで認められたのだろう、初めてのビジャマルタ劇場公演。

パトリシア・ゲレーロ作品の演出家フアン・ドローレス・カバジェーロ“エル・チノ”、マリア・モレーノ作品の衣装デザイナー、パロモ・スペインなどを招き、作り上げた、最初の大きな劇場向けの作品。力入っている。

そう全力で頑張った。

最初のマルティネーテに、確かなアグヘータの響きが感じられた。

白い伸縮性のある頭巾のようなものをかぶって蠢くベアトリス。

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

ソレア。アグヘータファミリーらしい響きと90年代にヒットしたフラメンコ・ポップのグループ、ケタマの雰囲気とが混ざっているようなのが面白い。レトラはオリジナルのようなのだけど、ちょっと聞き取りにくい。

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

上手で赤い衣装に着替え、なぜか黒の固定されたスカートみたいなのをつけて舞台上を移動。
©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

赤い、着物袖のような衣装に黒の半纏のようなベスト?を着てソレア。
©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez
タラント。
©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

ブレリアの振り付けはホアキン・グリロだという。
©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

最後は二人でサルサ風の曲を歌い踊って。
©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

うーん。頑張ったのはわかる。でもベアトリスの踊り手としての実力、個性は、現在のスペイン舞踊/フラメンコ舞踊シーンのレベルとも、潮流とも乖離している。いろんなフラメンコがあるのはいいことなのだろう。凄技をたくさんみてきているせいもあるかもしれないけれど、技術的にも表現的にも、もっと色々向上できるのではないだろうか。
そんな中、演出家を招いて作品としてのまとまりを作ったのは良かったと思う。でも衣装は個性的だけど、踊りやすそうには見えない。着物袖とかマントとか、なんかアジアっぽい、というかムーランみたいだったし。そこになんらかの意味があったのかもしれないけれど、それが全くわからない。黒の固定のスカートや最後の方に彼女が一人で走っている振りをするのにも???

全部わからないといけないと言うわけでもないし、フラメンコは自由なアートだと思うけど、舞台作品はやっぱ色々難しいですね。踊り手としての実力があっても作品作りで失敗することもあるし。うーん、色々考えさえられた夜でした。

フルートのフアンとバイオリンのベルナルド、かつてカナーレスやホアキン・コルテスのカンパニーなどで活躍した二人の音色が久しぶりに聴けて懐かしかったことも書いておきましょう。


 

Beatriz Morales – Agujetas Chico from Festival de Jerez Televisión on Vimeo.

2024年3月4日月曜日

ヘレスのフェスティバル10日目ダビ・コリア『ロス・バイレス・ロバードス』



一昨年のビエナルや去年のヘレスでワーク・イン・プログレスとして上演し、昨年7月、セビージャのイタリカ舞踊祭で初演。その後、今年フランス、ニームのフラメンコ祭でも上演されている作品なのだけど、上演のたびに変わっているそう。去年のヘレスで見た時ともイタリカの時とも同じじゃない。でも感想はイタリカでの公演の時と同様。

16世紀に踊り続ける疫病があったという話にインスパイアされての作品で、確かにずっと踊り続けてはいるのだけど、でも去年見たとき感じたような、意思と関係なく踊らざるを得ない感じとかはなかったし、被り物やファンダンゴ・パラオ、またトリージャのような、田舎の村的な要素も最初にちょっと聞こえるエル・ビートのメロディと角笛以外は排除されていて、見た目は綺麗だけど、何を見ているのかわからない。伝わってくるものは私にはなかった。ダビ・ラゴスの、伴奏もなしに音程もメロディも完璧に歌い上げるフラメンコ以外には。

ダンサーたちの身体能力もテクニックもすごいし、美しく雰囲気がある照明もいい。フラメンコ要素が少ないからいやだ、というわけではない。ヘレスのフェスティバルはフラメンコ舞踊とスペイン舞踊のフェスティバルなので、上演する場としても最適なのだろう。それでもなんだかモヤモヤする。あんなに素晴らしい舞台を、すごい瞬間をたくさん見せてくれたせっかくの才能が、フラメンコ/スペイン舞踊に生かされていない、ように感じるからなのだろう。フラメンコ/スペイン舞踊の要素はあってもコンテンポラリーに寄り過ぎているように見えるし、コンテンポラリーならもっとすごいカンパニーがたくさんある。自分たちにだけしかできない、フラメンコ/スペイン舞踊という個性、強みをもっと活かしてほしいと思う、個人的に。

で、昨日同様、先日のアルフォンソ・ロサとパトリシア・ゲレーロの作品の凄さを改めて実感するという…

©︎Esteban Abión/Festival de Jerez

©︎Esteban Abión/Festival de Jerez

©︎Esteban Abión/Festival de Jerez

©︎Esteban Abión/Festival de Jerez


2024年3月3日日曜日

ヘレスのフェスティバル9日目ファルキート『アルマ・ヌエバ』

 ファルキート自作であろう歌を歌いながら登場したフアン・エル・モレーノ。伴奏は父ファルキート。で彼も弾き語り、というオープニング。

パコ・デ・ルシアの『シルヤブ』風のファンダンゴで、フアンが踊り、女性舞踊手二人(クリスティーナ・ソレールとアウシ・フェルナンデスが踊る。

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

歌は昨日のアルフォンソ・ロサの公演にも出演していたイスマエル・ボラと地元ヘレスのマヌエル・デ・ラ・ニナ。二人の若手が熱演、好演。ギターもヘレスのマヌエル・バレンシアでいいのだけど、どこか昔っぽくダサいキーボードの演奏と女性の叫ぶような歌声が耳につく。

ファルーカをファルキート、フアンと踊りつぐけど、ファルーカのアイレが希薄なような。

女性二人の白いバタでのアレグリアス

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

そこからファルキートへ。
©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

クリスティーナのタラントに
©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

アウシのタンゴ
©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez


そしてソレア

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez

フィン・デ・フィエスタでは恒例、ファミリアも登場。

©︎Tamara Pastora/Festival de Jerez



ファルキートの、息子フアン・エル・モレーノとの新作で、代表作『アルマ・ビエハ』から20年と言うことで制作、とプログラムにはある。古い心が新しい心に。新しくなったものはなんだったのだろう。息子の存在? ムービングライトも使った照明? 合間にビデオを挟んでいること?

ここ20年間でのフラメンコ舞踊の変化は大きい。世代交代が順調に進んでいると言うだけでなく、作品の作りも大きく進化してきた。昔ながらの、伝統的な味わいの踊り手も健在だし魅力的だけど、従来のフラメンコの枠に縛られず作品を作る踊り手たちも多く活躍している。私はどちらのタイプも好きで、踊り手の好みを聞かれるとファルキートとイスラエル・ガルバンの名前をあげていた。ビエナルが、アーティスト自身に作品を作り主催側にオファーすることを求めるようになって以降、踊り手たちも踊るだけではなく、作品を企画制作せねばならなくなった。そのことの功罪についてはまた別の機会に考えてみたいと思うが、昔の、カンテフェスティバルで、1、2曲踊るだけ、ではすまないと言うのが現状。舞台作品制作ということを考えると、アーティスト本人のイメージ、そしてそれを形にするためのスタッフが必要になる。最初のイメージのベースになるのはやはりその人がそれまでにみてきたものであり、考えることなのだと思う。1990年代のホアキン・コルテスやアントニオ・カナーレスの時代には新しかったものも今は古臭く感じてしまう。それが時代の移り変わりというものなのだろう。そんな中で古典としていつまでも古臭くならないものもある。それを見極めて、今の時代にあった形で見せることが必要なのだろうな、などと考えさせられた公演でありました。難しいですね。

こんなことを考えたのは多分に前日の洗練されたフラメンキシモな作品とつい比較してしまったということもあるのかもしれませんな。