2011年9月10日土曜日

morao morao

モラオの死がまだ実感できない。
パケーラの隣に埋葬されているという墓地はもちろん
いつもそこに行けば会えたバルのある、
ヘレスにも行くことができず
ぼんやりと
思い出すのみ。


1988年春。
初めてのフェリアでランカピーノにくっついて入ったカセータで
ソルデーラやパケーラ、チョコラーテといった名手たちを
(ああ、彼らみんなが彼岸の人となってしまった!)
ペリキン、ニーニョ・ヘロ、アントニオ・ヘロと伴奏していたモラオ。
当時私はスペインに来て半年。
まだ何もわからない、スペイン語もあやふやな頃で
お金持ちが招待客をよんでフラメンコを楽しむというカセータに
図々しくも紛れ込んでしまったというわけだ。

ほかにもラ・ネグラやカニェータ、まだこどもだったポティートもいて
カマロンやマティルデ・コラル、闘牛士のクーロ・ロメーロらもお客として顔を出す、
今考えると夢のようなカセータの、キッチンの隣から
生まれて初めてみたフィエスタ・フラメンカ。
アルティスタにとってはお仕事でのフラメンコとはいえ
初めて間近にみる本物の一流のフラメンコたちの迫力に酔った。

ある朝、12時過ぎからはじまった宴がはねて(フラメンコたちの仕事が終わって)
ほかのカセータに飲みにいくというのについていき
結局翌日夕方までフィエスタとなった。
最後の最後、道でコンパスが始まり最後のブレリア。
そこへひっぱりだされたものの
何もできない私を王子様のように迎えて引っ込めてくれたのがモラオだった。

その後ヘレスに通いはじめた。
ペーニャやフェスティバルで
いろんな人を聴いた。
根っからのボヘミアン、ルイス・デ・ラ・ピカのブレリア。その詩人ぶり。
大きなマリア・ソレアが踊りながらひっこむ絶品シギリージャ。
トルタの絶唱。カプージョのタンゴ。
フェルナンド・デ・ラ・モレーナは食パンのトラックの運転手だったし
ルイス・エル・サンボは魚屋さんだったけど
バルでちょっと歌っているのをきいたら止まらない。
絵描きのフアン・グランデもまだ健在だった。
そんな彼らとモラオはいつもいた。

聖週間の水曜日はプレンディこと、
サンティアゴ教会のクリスト・デ・プレンディミエントを観にでかけ
降るようなサエタと
終わったあとのブレリア三昧に酔った。


1990年
一時帰国のときに
小松原舞踊団招聘による、
ビエナルのスターたち公演で
ハビエル・バロン、ミラグロス・メンヒバル、
ペドロ・バカン、アウロラ・バルガス、
ミステーラ(写真右)、マノロ・フランコ(左奥)らと
やってきたモラオに会ったのは。



翌91年には
日本フラメンコ協会のフェスティバルに
特別ゲストとしてトルタと来日。
新宿での公演、ホテルだったこともあって
連日ナナに通ったものだった。

若林さん、高場さん、ナナさん、モラオと
若林さんぜんぜんかわんないねえ

そうこうするうちに時は過ぎ
ヘレスで
セビージャで
マドリードで
劇場で
野外フェスティバルで
録音スタジオで
と場所は変われど
変わらぬ彼の深い響きと
誰をもわけへだてなくつつんでしまうような豊かな人間性を
間近に感じてきた。

細く長く美しい指で奏でる
シギリージャのはじまりの、その音の深みに
妙なる間合いに
背筋はぞくぞく。
アンダルシアの日記念のマドリード、サルスエラ劇場での
メルセ伴奏のシギリージャはすごかった。
イントロがはじまるとともに涙が止まらなくなった。
そのことをあとでパルメーロで彼の義弟のラファにいったら
舞台の上でラファも泣いていたのだという。
毎日きいている人をも泣かせてしまう力技。
いや力ははいってないんだよね
フラメンコの神様が自然に彼に弾かせているんだよ、きっと。
でも本当に悪魔のような間合いなんだよ。
伝統的なシンプルなかたち。
がシンプルゆえにひとつひとつの音の間合い、
力加減で、すべてがかわってきてしまう。
(そういえばこの間新人公演のカンテ伴奏で
鈴木一義さんがモラオ風に弾いてくれて泣きそうになったよ
あれはなによりのオメナへだった)
シギリージャの伴奏でモラオの右にでるやつはいない。
今でもそう思っている。

もう一つの十八番はやっぱブレリア。
大きな固まりがぐるんぐるんまわっているような
遠心力を感じさせるブレリアの伴奏。
これまた間合いの小気味のよさにつきる。
一瞬の音の止め方の粋なこと。
心躍り、身体が自然に動いてしまう。
そしてまた
フィン・デ・フィエスタで踊ってみせる、
誰よりも優雅なブレリアの一振りにしびれる。
マルカールもさることながら
去って生き方のかっこよさ。
ああ
これぞフラメンコと大向こうをうならせる。
踊り手すらも舌をまくあの一撃。

伯父マヌエル・モラオと。ヘレスのフェスティバルの記者会見会場で
あるとき私がパコ・デ・ルシアに訊かれた。
ギタリストは誰が好きかと。
「モライート」
とつい即答。
「うん。今の潮流とはひと味違うけどいいギタリストだね」とパコ。
それをききながら「あなたです」というべきだったかな、と思ったことが昨日のようだ。
フラメンコギターの神様も一目おく存在。


実際モラオは特別だった。
スロットマシーンの音楽にあわせてブレリアふんでしまうような
いまさら言うのも変なくらいのフラメンコで
いつも自然体。
おおらかでユーモアがあって
演奏のときにみせる深みとキレ。
彼はフラメンコそのものだった、と思う。

会った当時、録音も伴奏でのものが盟友ディエゴ・カラスコとか
昔のヘレスのレコードとか、
あとたしかルンバとか、ほんとうにほんの少しだった彼だが、
ペペ・デ・ルシアがプロデュースしたヘレスの歌い手たちのアルバムを
録音した頃からだろうか、
仕事も順調に増えていった。
ポティート、ビセンテ・ソトなどとの録音。
主にヘレスの歌い手たちとの舞台。
最初は車をもっていなかった彼が
中古車から日産プリメーラ、ベンツに、
家も団地から一軒家へと変わっても、
いつも彼は変わらなかった。
会えばいつもの笑顔。
いつものバルでいつもの仲間といつものコパ。
そういえばビセンテ・アミーゴの結婚式で
ギターを抱えアルボレアを弾いたという話もある。

アグスティンのバル、アルコ・デ・サンティアゴで。真ん中はギタリストのフアン・ディエゴ
私は本当に彼のフラメンコが大好きだった。
彼と一緒にいるのが好きだった。
生まれる前からフラメンコを呼吸している彼らといると
言葉ではなく、伝わって来る何かがある。
いや、そんなものがなくても
とにかく一緒にいるのが楽しい人だった。
だからみんなに愛されていた。


2010年、ヘレスのフェスティバルの記者会見会場で。
20年前の写真とは全然違うね
肺炎をおこし入院したのはほぼ1年前のことだったと思う。
それは完治してタバコもやめたのに
声の調子がおかしいと言っていたのはビエナルの頃。
石井智子さんの公演で来日して帰国後
病院でガンとの診断を受け
それでも自分で車を運転してセビージャに通い
放射線治療を受けながら
舞台に出続けた。


エネルギーにみちているのにどこかゆったりとしていて
ここちよく、楽しく元気になってくるようだ。
人柄そのまま、といったところか。
これぞ本物。純粋正統フラメンコ!


と書いたソロを聴かせてくれた。

その後オランダのビエナルにも出演した。


2010年夏ロンダのフェスティバルで,メルセを伴奏

治療の副作用もあって舞台から遠ざかっていても
会えばいつも前向きだったから、
きっと舞台に帰って来ると思っていた。
メルセも自分の舞台のギタリストとしていつもモラオの名前をあげていた。
実際はディエゴ・デ・モラオが行くことが多かったようだけど。



モラオにもらったたくさんのフラメンコは
私の中で今も響いているけれど。


あのニュースから一ヶ月。
すごく長い時間のようにも
短くも思える。
毎日会ってた人ではないけれどそれでもなんだか
ぽっかり空白があいたようだ。



やっぱ寂しい。
とても悲しい。


2009年、ラ・ウニオンのフェスティバル

2 件のコメント:

  1. モライートに対する気持ちがひしひしと伝わってきました。天国でもギターを弾いているでしょうね。

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  2. thermeさん
    コメントありがとうございます。天国では今頃、カマロンやソルデーラ、テレモート、パケーラ、マリア・ソレア、フェルナンド・テレモートやルイス・デ・ラ・ピカなんかとフィエスタ三昧でしょう。
    本当にみんなから愛された人なんです。それが伝わったとしたらうれしいです。

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