いやあ、そうきましたか。意外。
AMIといえば、マドリード、セビージャで学び、コルドバのコンクールでグアヒーラを踊って日本人として唯一、優勝した人。いわゆるエスクエラ・セビジャナーナ、セビージャ風の女性舞踊を会得し、優雅な舞には定評がある。
だから今度も、と思っていたのだが、この公演ではフラメンコをフラメンコとして踊るのではなく、母と娘というテーマを、フラメンコを言語として使って表現する、というものだった。いわば、フラメンコを使っての創作舞踊。
妊娠、出産、子育て、娘の反抗期、母娘の軋轢、母の子への思い、母の老い、そして別れ、と3組の母娘で描いていくというもの。
シンプルなストーリー。女性なら誰もが見につまされるところがある物語。
母への思い。母の思い。娘の思い。
師と弟子もまた、母娘のようなものなのかもしれない。
最初の場面は「誕生まで」マノロ・サンルーカルの名作「タウロマヒア」のアレグリアス「プエルタ・デ・プリンシペ」での「胎児の力」というシーンに始まる。音楽こそフラメンコだが、踊り自体はフラメンコに縛られない、自由な創作。
続く「妊婦の願い」は、ジャズ風ピアノ伴奏のナナ(誰だろう?パシオン・ベガらスペイン歌謡系とも思ったけど、アクセントからして外国人?わからない)も録音。ブレリアでやっと生演奏に。ダビ・ラゴスのリガール、音のつなげ方にオレ!
子供を失った母をAMIがソロで踊るが、これもピアノの録音。髪型のせいか、AMIの姿に、その師岡田昌己の姿が重なる。会場にいらした岡田氏にいうと「全然違う」ということなのだけど、私にはその佇まいが師を思い出させた。
「幼児期の幸せ」はタンギージョ、「子供の成長」はグアヒーラ、というようにフラメンコ曲を使って、フラメンコな振り付けも使われてはいる。でも、あくまでもテーマ優先。
独立したフラメンコ曲とはなっていない、という感じを受ける。それでもグアヒーラの足使いなどに素敵なデテールがあって、ちょっとハッピーにしてくれる。
レトラも母を歌ったものなどを多く歌っているし、オリジナル?と思われるものもあるのだが、聞き取りにくく、その内容を全部理解できた人は少ないだろう。音響は今ひとつ。
パルマの音が大きすぎたり、ギターや歌が大きすぎて靴音を消したり。残念。
母の子への思いや老いていく母と近くにいない娘の場面など、外国に暮らす私もそうだが、身につまされた人が多かったのだろう、あちこちですすり泣きが聞こえた。
最後は、母との別れをイメージさせる場面で終わる。
普遍的なテーマをシンプルな形で表現し、伝えたかったことはおそらく完璧に伝わっているだろう。が、フラメンコのリサイタルとしてみたら食い足りない。マイムや表情で言いたいだろうことは伝わるのだけれど。
ここで出演者はお辞儀をして、一旦終わりといった感じがあるのだが、その後、すぐ、ミュージシャンたちのカディスのブレリアが始まり、アレグリアスへ。華やかなバタ・デ・コーラのAMIの一人舞。ミラグロス譲りのパソがいろいろ出てきて、その見事な演技にオレ。
これはフラメンコを目当てに来たお客さんへのサービス? でもこの踊りを、作品のフィン・デ・フィエスタとしてでなく、作品の中に組み込むこともできたのでは?
ひとつのフラメンコの曲としても見ることができて、全体の流れで、テーマを伝える、というのもありなのでは?
バタさばきはさすがだが、衣装が彼女には役不足。丁寧な仕事が施されたバタなのだが、バタの部分にハリがなく(バタの部分の裏のフリルが少ない?そこの生地がぺしゃんとなってる?)せっかくのバタさばきに応えきれていない。バタの足使いが見えるのは、練習生には勉強になるだろうが、普通はあんなに見えないはず。残念。
群舞は、水玉衣装でセビージャぽいタンゴ。個性も見え隠れして楽しい。
そして盛んな拍手に応えて挨拶、また挨拶。
日本人が、フラメンコを演じる時代から、フラメンコを自分の言語として使う時代になったと見るべきなのだろう。それも上辺だけで捉えた、見せかけだけのフラメンコではなく、しっかり基本を抑えたフラメンコ。
うーん、でも個人的には、物語とフラメンコ曲の両立が見たいかもしれない。
母への思いも、母娘の歴史を追う以外でも表現できたのではないか、とも思う。
母娘を3組登場させたのは普遍性を表すため? でも本当にその必要があったのだろうか。また母役娘役を踊るダンサーが固定していたが、見た目年齢が近いからどちらが母かと戸惑う感じも正直あった。場面ごとにもっと自由に変えてもよかったかも? 母もまた娘であり、娘もまた母になるかもだし。あ、それじゃ複雑で舞踊では伝えきれない?
いや、そんなことはないでしょう。。。
などと見る側はいろいろ考えます。
でもいろいろと考えさせてくれる作品に出会えたことは良かった。
また次のAMIが見てみたい。
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