2021年9月19日日曜日

マリア・ホセ・ジェルゴ

 フラメンコとフラメンコじゃないものの線引きはどうするべき、どうあるべきなんだろう。

なんてことを考えてしまうのは昨日セントラル劇場で観てきたマリア・ホセ・ジェルゴ。この人については全く知らなかった。『フラメンコ・ビエネ・デル・スール』のシリーズで公演するということでちょっと検索してみて出てきたビデオを見たら、あ、ロサリアみたいな?というイメージで、うん、じゃ、聞いてみようかな、と思って行ったわけですね。

歌手でした。歌い手ではなく。

基本はメロディアスな歌を熱唱するタイプ。ロングトーンを多用して、最初は上手いかも、と思ったんだけど、ずっと聞いていると全部同じに聞こえてくる。マイクの使い方とかうまそうだけど、なんでしゃがんで歌うんだろう。わからん。

オープニングからシギリージャのリズムがバックに流れてはいるのだけど、お構いなしだし、タンゴやソレアの形で歌ったりもするのだけど、借り物にしか聞こえないのだ。フラメンコに聞こえない。メロディやリズムの形はなぞっていてもフラメンコと聞こえないのはなぜなんだろう、と考えさせられる。発声? それもあるかもしれない。声の質もあるのかなあ。歌をよく知っていても、音程やリズムが良くてセンスがあっても声がない、ということで歌い手にならずに歌手になったアルティスタもいるくらいだしね。うーん、でも一番欠けているのはフラメンコへの愛かも? 

伴奏にしても、パコ・デ・ルシアの『愛のうた』やマノロ・サンルーカルの『タウロマヒア』からのフレーズを借りてきてるし。他にもローレ・イ・マヌエルの曲のイントロみたいだったり。なんなんだろう。

フラメンコは難しい。うわべをなぞって、一見、形が整っているように見えても、それだけじゃない何かを観客は求める。いやもちろん、音程、リズム、メロディなど、形も大切。ないよりあった方がいい。でもそれだけじゃない何かがあるのを、フラメンコの観客は知っているから、それがないものは一刀両断になっちゃうんだろうなあ。

もちろん、昨日の彼女が悪いわけではなく、たくさんのファンがいるだろうし、でも、フラメンコの枠の中に入れない方が良かったんじゃないかな、と。


予習していくべきでした。私の失敗。
















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