不思議な作品。
©Javier Fergo Festival de Jerez |
アナは、美しい動きと形を見せてくれる、大好きな踊り手の一人なのだけれど、この作品ではバタ・デ・コーラの妙技などは見られない。完璧にコントロールされた体があるだけだ。
これはフラメンコではないという言い方は大嫌いだ。フラメンコが何であるかを決めるのは誰? 私が好きなフラメンコではない、私が思っているフラメンコではない、というべきだと思っている。アーティストもアフィシオナードもみんなそれぞれの中にそれぞれのフラメンコ像があって、その枠から外れるとそう言いたくなるのだろうけど、フラメンコはすごく大きなもので、小さな箱に閉じ込めておくことはできないものだ、と私は思っている。
でもだからと言って様々なフラメンコの決まりをすべて取っ払ってしまった場合、果たしてそれはフラメンコなのだろうか。フラメンコを自分の言葉として使う人ならそれもフラメンコと呼べるように思う。
内容についてはビエナルでの初演の時、詳しく書いているのでそれをご参照いただければ幸い。
終演後に劇場側のバルで会ったアナもボリータもビエナルの時から何も変えてない、というのだけど、なんかまたちょっと違う感覚をもらったような気がするのは、パンデミックのさなかに制作され、外出規制がようやく取れたところで見た2020年9月と、ワクチンも広まり感染状況もだいぶ落ち着いている現在の、私の方の変化なのかもしれない。
私はこれは探索の作品だと思っている。記者会見でも秩序とカオス、死を畏れてバランスにこだわる、などがキーワードのように語られていたが、バルでアナが話してくれた、身体の動きたいように動かす、などの言葉がまだ頭の中で踊っている。
筋肉を動かす、関節を動かす、とか全部意識してるんだ、と改めてダンサーとしての彼女の意識の高さに感服したし、片袖抜いて踊っていたのは片方の腕だけで踊るってことだったそうで、気づかなかった、とか。
先日現代音楽で踊るアンドレス・マリンを見た時の体験などもあり、演者がより自由に表現していくのにこちらがついていけてないようにも思えて、いやいやなかなかどうして、観る側も勉強します。
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