2023年9月29日金曜日

アルヘンティーナen Teatro Central


 2時間近い公演の間、ずっと考えていた。なぜ、大勢のお客さんがこんなに喜んでいるのに私には届かないのだろう、と。

音程がすごくいい。リズムを外すこともない。この日もブレリア、タンゴ、バンベーラ、シギリージャなどたくさん歌った。レパートリーは広いし、声はちょっと鼻にかかっているというか舌足らずみたいな感じもあるけど声量もないわけではないし、声の調子のコントロールをしていないわけでもない。でもオレ、と言いたくなるような要素が全くないのでありますはっきりいうとつまんない。

って、これ書くために過去の投稿を見ていたら、こう書いていた。

何を歌っても一緒。歌をスペイン語でいうマティサール、微妙なニュアンスを加味する、ということが全くできていない。

こんなのもあった。

音程もリズムもいい。声のコントロールもできている。上手いんだけどオレ!がほとんどかからない。どの曲も熱唱。みんな同じ感じなのだ。
フラメンコは曲種ごとの性格を表現するのも演者の役割だと思うのだけど、シギリージャもアレグリアも皆同じ顔、同じ表情で歌う。
技術はあるのだけど、それを曲の表現に、感情、心の表現に結びついていないのだ。

書いたこと忘れてたけど。結局そういうことなんだと思う。彼女も、私も変わってないな。

では、なぜ、彼女の歌を好きな一定の観客層がいるのでしょう。

それはフラメンコも歌謡曲のような歌として楽しみたいからなのではないか、と仮説。彼女の歌は歌詞が聞き取りやすい。深い感情を込めたりするようなところがないから、タメや間合いの微妙な変化はないので(私はそういうのが聴きたい)、リズムも一定で聞きやすいのではないだろうか。自分でも一緒に歌いたい人たち、と言ってもいいかもしれない。最後、ファンダンゴ・デ・ウエルバで、アロスノのファンダンゴはみんなで歌って、と彼女が促すと嬉しそうに歌っていた人が多かったのを見てそう思った。

ウエルバのファンダンゴはウエルバのファンダンゴで魅力があるし、パコ・トロンホのような個性的で、素晴らしい歌い手もいるのだけれど。フラメンコは幅広く奥深く多彩。内臓をさらけ出すような心の叫びのようなシリアスなものからユーモアあふれる軽妙なものまで、曲をどう表現するのか、また曲でどう表現するのか、ちょっとした間合いや声の調子、表情などで何をどう伝えてくれるのか、が私にとっては大切で、パコ・トロンホのファンダンゴにはそういうものも感じさせてくれるのだけど、往々にして、ファンダンゴからきたウエルバの歌い手は朗々と歌い上げる、熱唱するというタイプが多いような気もします。ま、人によって大切なものは違うわけで。ってことなんでしょうけど。

アンコールでベルナルダがブレリアで歌ったTodo el mundo nos separa 歌った時とか、ほんと、歌謡曲にしか聞こえない。ベルナルダとのあまりの違いにクラクラしたことでした。べるなるだが歌うと歌詞が親身になって、切なくて、その気持ちにこっちの心も寄り添い、グッと来るんだけどね。そう、それなんだよ、彼女の心が気持ちが見えない。全て平面的で平版。いや、あの音程だけでもすごいとは思うのよ、思うのだけど。

は〜。どっと疲れて終演後いつものようにバルには寄らずまっすぐ帰ったのでありました。


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