面白かった。そして考えさせられた。
なぜフラメンコなのだろう、と。なぜ私たちはフラメンコを追いかけるのか。フラメンコが好きなのか。日本にもいいものがたくさんあるのになぜフラメンコだったのだろう。きっと、これという答えはないのだけど、その答えのない問いが頭の中をぐるぐる。ひょっとすると工藤もそんな思いを持っていて、そこからこの作品が生まれたんじゃないかと妄想。
たくさんの要素がある。フラメンコが生まれる前のスペインやアフリカの音楽。それが宣教師らの手で日本に渡ったこと。工藤の故郷、青森や日本の他の地方の音楽、リズム。民謡。お祭り。フラメンコ。フラメンコと和の出会い。それらが、ランダムに登場してくる感じ。それを整理して順序立てて、物語のように、というか、起承転結的に構成することも可能だったんだろうけどあえてそれを避けているような気もする。いろんな要素を提示して、こっちに考えるきっかけを与えているような感じ。
いわゆる純フラメンコは前半のトナだけで、あとはガロティンと長持唄を合わせたり、フォーリアを踊ったり、じょんがら節など、民謡や三味線、リコーダーで踊ったり。最後はシギリージャなのだけど、これはフラメンコ・フラメンコな、カンテを踊るシギリージャではなく、自分を、自分の思いを伝えるために踊る振り先行のシギリージャのように私には見えた。
根っからの踊り手なんだなあ、と感じさせる工藤の、形の美しさ!コンテンポラリー的なものやムイ・フラメンコなもの、そして日本の踊りからのもの、いろんな要素を自分で咀嚼して踊っているのもいい。
そして共演の浅野祥の素晴らしさ!。声の力。音の力。津軽三味線の腕は知っていたけど、歌もうまい。声がすごい。民謡の力。こんなすごいもんが日本にあるのに、なんで私らはスペインでフラメンコ追っかけてんだろう、という疑問が自然に湧いてくる。二人だけのシーンの素晴らしさ。ゾクゾクっとした。個人的には浅野と二人だけの舞台も見てみたいかも。三味線とフラメンコの共演は何も今に始まったことではなく、大昔にもフラメンコギターとの共演とか何度か見たし、91年にセビージャで行ったイベントでも、確かカナーレスが三味線でタンゴで踊ったり、カニサーレスと三味線の共演とかやってたようにうっすらと記憶している。
遠いようで近い、近いようで遠い。
なお、タイトルの"時"はじ、と読むのだそうだ。場内アナウンスで知った。じとちとちと、じとじとじと。時を経て再び出会うもの、血の中で唸るもの、大地から生まれたもの。
いろいろとグジグジ考えてしまうこともあるけれど、フラメンコはすでにフラメンコを愛する私たちのアイデンティティーでもあるのでは? 悩んでないで一歩前に出ろ、と励まされているような気にもなってきた。
ねぶた祭でのように跳ねる工藤と重心を落としてフラメンコを踊る工藤。どちらも自然で美しい。
あと、作品における歌詞についてもちょっと色々考えさせられた。フラメンコでは歌詞の内容そのものを踊るわけではないけれど、作品の場合、内容に合わせる、方向性を一致させるということはよく行われているし、そのための歌詞を作ることも少なくない。日本語の歌も入ったせいか、余計にその歌詞の内容と、作品の流れとの関係を考えざるをえない。長持唄でのガロティンのお椀のような笠はガロティンの帽子からなのだろうけど、そんな結婚の儀式があるのかな? ガロティンには結婚の要素はポピュラーな歌詞でもなかったよな、とか考え出したり。うーん、深い。色々考えが止まらない。そんなきっかけをくれてトモちゃん、ありがとう。
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