イスラエルは面白い。思いもがけないことをするのでいつも驚かされる。ほかの誰にも起こり得ないような発想。珍奇? 天才的? どっかから借りてきたものではない、彼の中で何かが動いて起こったであろうアイデア。これ、こうやったらどうなるんだろう、と好奇心から実行に移す、という、子供の遊びのような感じもある。そして見る側のわたしたちも子供に帰ってその好奇心、探究心にワクワクさせられるのかもしれない。
今回、題材として取り上げたのはロス・セイセス。セビージャで、無原罪の御宿りの祝日や聖体祭などの時に、カテドラル行われる少年たちによる歌と踊り。15世紀に始まり、今も当時と同じ衣装、音楽、動きで行われているとされるもの。
セビージャの両親ともに踊り手の家に生まれ、子供の時から踊ってきたイスラエルが、少年ダンサーというところに興味を持ったものらしい。
開演前の写真。舞台中央に広がっているバタ・デ・コーラのような大きな布。下手には奥がピアノで手前がチェンバロ。上手がわの椅子の周りには小道具が置かれています。
舞台に鍵盤奏者が登場し、下手はじのカホンに座ってしばらくしてからチェンバロを弾き始めると上手からイスラエルが登場、真ん中のスカート状のものを外すとなんとエアロバイク!そこからエアロバイクに座って漕いでの踊り。これがすごい。
音楽のリズムにリンクしているかと思うと、坂を登るように漕いだり、ポケットに入っていたダーツの矢をリムに当てて音を出したり、矢を投げたり。
フラメンコというとサパテアードなわけだけどそれを封印しての挑戦と見ることもできる?そして自分が出す音へのこだわりがいつもながらに続いております。
チェンバロからピアノに代わり、羽のついた帽子を被り舞台中央の白い床でセイセスの足取りを踊る。上手奥の椅子に座ったラモン・マルティネスがカスタネットを打ちイスラが踊る。終わると少女が「カスタネット叩けないのね」と言い、もう一度同じ踊りを繰り返す。何回繰り返しただろうか?7回?8回?最後はやけになって、アチョーと言いつつカスタネットをヌンチャクのように使ったり。いやいや、こういうユーモア好きよ。
チェンバロでのマヌエル・パレハ・オブレゴンのセビジャーナス『que también es de Sevilla 』(映画セビジャーナスでマティルデ・コラルが踊っていたやつ)を鍵盤奏者が弾き語り。外人アクセントがいい感じ。イスラはお盆にボータをのせてたっていたり。
18世紀のセビジャーナスからラモンもパレハ・オブレゴンのセビジャーナスを熱唱し、そこからソロで踊る。多分、ここがこの作品の中で最も従来のフラメンコに近かった場面でしょう。でも、ラモンの名前はプログラムにはライブミュージックの演者の一人、として載っている。舞台中央の白いシートのところはゴムかなんかで、音が変わって、太鼓みたいなこもった響きになるのも面白い。
©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
次は、少女が恐ろしい呪いの言葉(生きて火あぶりになれ、とかそういう類の)を読み続け、それで踊るイスラ。これはちょっと長かった。魔女裁判時代を象徴してるのかなあ。
©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
最後は少年少女合唱団がやってきて何曲か歌い、後半はイスラがそれで踊る、というもの。
それで全てが浄化されていく感じなのかも。
作品としては、『黄金時代』や『ロ・レアル』『フラコメン』とかの完成度、完璧性に比べると物足りないところもあるけれど、やっぱイスラはイスラ。期待を裏切らない。
©️ Archico fotográfico Bienal de flamenco / Claudia Ruiz Caro |
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