11日に予定されていたヘスース・カルモナの『エル・サルト』が、カンパニーのメンバーが無症状ながらコロナ陽性となり、前日に急遽、延期が決定。会場は同じロペ・デ ・ベガ劇場だけど日時は現在まだ未定。陽性者が陰性になって、また陽性者と濃厚接触者である他のカンパニーメンバーが陽性にならないか、なども見なくちゃいけないだろうし、もしそうだとすると、最低でも2週間はかかるのかもしれません。
でも、そのおかげで、9月6日に行われたロシオ・モリーナの2公演のYouTube再配信を観ることができました。劇場で生で観た作品を1週間たたないうちにビデオでまた観るというのは初めて。
驚いたのは、劇場で観たときに感じた、ぞわっとするような感覚を再び、同じように感じたことでした。
ラファエル・リケーニとの『イニシオ(ウノ)』はじまり(1)。白い床。伝統的なフラメンコ椅子。
最初、ラファエルが音を出した瞬間に、ああ、もうこれは一瞬たりとも見逃せない、と、メモをとるつもりだったノートをバッグに閉まった、あの感じ。うわ、これはすごいぞ、という感じ。劇場で感じたぞわっがそっくりそのままよみがえったのです。いや、もう今は次に起きることがわかっているのにもかかわらず。
そしてその予想が最後まで裏切られないのです。画像はそれほど鮮明でなく、全画面表示にするとちょっと観づらい感じなのは残念だけれど、なんで今ここなの、という謎のアングルとかはなく、素直な感じでみせてくれます。劇場のように、今自分が観たいところを観る、というわけにはいかないけれど、満足。音響は劇場の方が良かったけど、悪くはありません。
ラファエルが紡ぎ出す音を、ロシオは一つ一つ拾うように動きはじめ、奏でられる音楽が動きに流れを作り舞踊が生まれていきます。
ロシオは自分が自分が、というエゴと一番遠いところにいるように思われます。ラファエルの豊かで美しい音楽に、自分の身体を媒体として差し出しているかのよう。もしくは音楽に導かれて、自分の中から自然に出てくるものに身体を任せているというか。ある意味、巫女的な?
セビージャの聖週間で行列に従う音楽隊が演奏する名曲『アマルグーラ』で、ロシオは聖母となり生まれ変わり、それまでの音楽をなぞるような動きから能動的な(?)フラメンコが始まる。そんな気がしました。そしてそれが次の1へとつながっていくのでしょう。
エドゥアルド・トラシエラ、ジェライ・コルテスとの『アル・フォンド・リエラ(オトロ・ウノ)』奥底に光る(もう一つの1)の床は黒く光っているし、彼女の衣装も黒が基調。一見すると全く違う世界。でも二つの世界はつながっているのです。その象徴のように奏でられる『アマルグーラ』の象徴的なメロディ。
エドゥアルドの切れ味がよく太い音。ジェライの飛び跳ねるような楽しい音。彼らの音に反応して踊るロシオ。ラファエルとの共演で目覚めた彼女の中のフラメンコが広がっていく感じ。
帽子のファルーカ。バタ・デ ・コーラでのソレア。音に従い踊り始めた『イニシオ』とは違い、ギターと対等に渡り合う。フラメンコ世界がどんどん広がっていきます。
フラメンコではとかく影になりがちなギター。その豊かな音楽世界を、フラメンコ 性を、光の当たる場所に。一般には舞踊作品と捉えられるのだろうけど、ギター作品としても一流。
フラメンコ舞踊は歌を踊る、といいます。でもカンテがなくても、ギターが歌を奏で、ロシオはそれを踊っています。いやロシオも歌っているのかもしれません。
もちろん、歌を奏で、というのは歌のメロディを演奏するという意味ではありません。その奥に流れるもの、というのかな、演者の中にある伝えたいもの、感情の表現もしくは方向性、そんなものを音で外に出すというかんじ?いや違う?うーん、難しい。けど単なる音の羅列ではなくそこにプラスアルファがあるわけで。で、普通のギターソロでも歌っているギターってあるけど、今回の二人は、踊りと演奏するとき、確実に歌っていたように思うのです。だから物理的に歌はなくても歌があった、そんな感じ。
広がっていったフラメンコが、いろんなところに辿り着いて、その表現が最後の花柄仮面だったのではないか、などと、いろいろ妄想。
踊りやギターそのものを楽しむだけでなく、その後も色々と思い返して、あそこ良かったなあ、あれはどういうことなんだろう、こうかな、ああかな、などなどいろいろ思い巡らすことができて、1回みたらずっと楽しめる。そんな公演でありました。
ギター三部作の抜粋、ということですが、さて、これが今後どういう展開をみせるのか改めて楽しみであります。
それにしてもロシオ、すごいなあ。この発想。そしてそのアイデアを、適材適所、様々な人の手を借りて形にする。これが本当の天才。そう思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿