セビージャにちょっと長く住んだ人なら知っていると思うのだけど、セビージャは聖母さん、キリストさんの街なのです。聖像を輿に乗せて、目だけ開いたとんがり帽子姿の信者と共に街を練り歩く有名な聖週間だけでなく、何かと聖像の行列が繰り出す街。ポベーダ見に行く道でも楽隊の行進に出会い、昨日は帰り道、聖像の大聖堂詣終わりの人混みに遭遇。そんなセビージャを知ってたら、すごくセビージャな作品だなあ、と思うだろうな、という作品でありました。
客席から演奏される聖週間の楽隊のコルネットで、上半身裸のアンドレスが一人踊り始める。舞台下手には肉屋の作業台。皮を剥いだ羊がぶら下がっている。その肉を切りながらアントニオ・カンポスが歌う。アンドレスは手につけたヤスリ?をズボンに擦り付けて音を出しながら踊る。寝っ転がったアンドレスのソレアでアナが踊り始める。長い付け毛をつけて。
アナは天性のダンサーなのだろう。手、腕、足、といった各パーツがそれぞれ独自の意識を持って動いているようで、こちらに語りかけてくる。
Archivo Fotográfico de La Bienal de Flamenco / ©Laura León |
Archivo Fotográfico de La Bienal de Flamenco / ©Laura León |
Archivo Fotográfico de La Bienal de Flamenco / ©Laura León |
Archivo Fotográfico de La Bienal de Flamenco / ©Laura León |
と、舞台上で起きたことを順に追ってみたけど、何が何だかわからない、という人も多いだろう。劇場で見ていた人もそういう人もいるかもしれない。
マタリフェとは屠殺人、パライソは天国。作品についてのコメントの1行目に、天国への道は犠牲の問題、とあり、なんとなく、これ読んだだけでなんとなくわかった気になるけど、いやいや、いろんな思いはあるのだろうけど、アンダルシアの文化である信仰の音楽やモチーフを演じることで一歩前に進もうとしたのだろうな、と思う。フラメンコの曲やサパテアードなどの技術は使いつつも、古典的なフラメンコの枠組に縛られず、自由に、言葉にならない自分の考えや想いを語りたい、ということだったのだと思う。
フラメンコは踊りも歌もギターも、演者のその時その時の選択によって歌やメロディ、振りを変えることができる、かなり自由がきくアートだと思うのだけど、曲種ごとのリズムやメロディ、キャラクターなどの規則もたくさんあるわけで、で、またそこが、その制約の中でどう表現するかというところが、面白いところではないかと思っているのだけど、それすら捨ててもっと自由に自分の表現を求めるアーティストもいる、ということかと思うのでありました。
ビデオ貼っときますね。
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