満場の観客が総立ちで拍手をおくる。
何度も何度も拍手にこたえて頭を下げるロシオ。
マラガ県ベレス・マラガ生まれの26歳のバイラオーラの
第8作「ビナティカ」は喝采のうちに幕を閉じた。
5月17日セビージャ、ロペ・デ・ベガ劇場
エドゥアルド・トラシエラのギターに
ホセ・アンヘル・カルモナのカンテ、
オルーコのコンパス
3人の男たちを従えたロシオの舞台は
イタリア人作家ロベルト・フラティニの助けをかり
自らのアイデアでつくりあげたものという。
客席に入ると舞台中央に背中をみせたロシオ
長く引いた裳裾、コーラは客席の半ばまで届き
人々はそれをふんで自分の席につく。
低く流れるピアノ曲にあわせ
ゆっくりと腕を動かしている。
舞台にはホリゾントも袖幕もなく
むき出しの照明、そでにはひとがた。
上手奥にはシェパードが行儀よくおすわりしている。
遠いどこかのようでどこにもない不思議な世界。
上手奥から燕尾服をきた男たちがやってきて
下手にかかった絵にむけて
ロシオとともに杯を高くかかげて乾杯しては戻って行く。
それが何度も何度も繰り返される。
やがて開演5分前、そして開演のアナウンスがあり
ロシオは舞台奥のひとがたにながくひいていたスカートをまきつけ
身軽になって犬をつれて舞台をあちらこちらへと動く
舞台中央上手より奥にある壁を叩き始める
三拍子だ
物語があるわけではない。
でも演劇的な要素がちりばめられた舞台。
コンテンポラリーダンスの作品的といえばわかってもらえるだろうか。
ギターとたわむれ
ワイングラスを床においてサパテアード
「フエンテオベフーナ」での瓶を下において足さばきをみせる民族舞踊を思い出す。
明るい色の巻きスカートでのカンティーニャス
いつもながらの卓抜した技術
伝統的な動きに斬新な動き
それらがまざりあっている。
腕をまっすぐ天につきあげたり
ゆるやかなカーブを描いたり
次に何がくるか予測がまったくできない。
それらがまざりあっている。
腕をまっすぐ天につきあげたり
ゆるやかなカーブを描いたり
次に何がくるか予測がまったくできない。
今、彼女は自分自身のフラメンコを探しているのにちがいない
古い形を学びそれを壊し新しいものを築いていく
そんな感じがする。
たくさんの円形の灯りがおりてくる
月のようにもみえるし祭りの提灯のようにもみえる
そのひとつをロシオが手にとると
まわりに豆電球のともったタンバリンで
それをたたきつつ踊る
膝下までのスパッツ姿のロシオ
サンブラだ
ロマンセ風のブレリア
そして机の上におかれたワインの木箱
(たぶん中にマイクがしこまれている)
ふたをあけてそこを叩きコンパス
踊り手であるオルーコも拳だけでなくサパテアードもつかって
二人がコンパスのやりとり
そしてシギリージャ
昔ながらのシギリージャでの痛みは
今の痛みとは違う
とでもいっているような。
昔ながらのシギリージャでの痛みは
今の痛みとは違う
とでもいっているような。
最後は最初に登場した長い裳裾、コーラが
舞台の外へと飛び出そうとする彼女の身体を支える
いろんな読み方ができる一冊の本を読みおえた気分
舞台上にちりばめられたものたちに
それぞれの意味があるのか、ないのか
そんなことを考えるのもちょっと憂鬱。
改めて実力のほどをしらしめたが
この作品が好きか、といわれると
素直にうなずけない私がいる。
全体をつつむどこか悲しげな黒い影のせいかもしれない。
前作「クアンド・ラス・ピエドラス・ブエラン」もそうだったけど
踊りそのもののまわりにあるものたち、
演劇的な要素が踊りそのものをいかすことに役立っていないという気がするのだ。
でもこの私の居心地の悪さは
実はその斬新さに私がついていけないだけかもしれない。
まだ私が理解できないだけかもしれない。
踊りそのもののまわりにあるものたち、
演劇的な要素が踊りそのものをいかすことに役立っていないという気がするのだ。
でもこの私の居心地の悪さは
実はその斬新さに私がついていけないだけかもしれない。
まだ私が理解できないだけかもしれない。
そういえば昔から彼女には
演劇的手法志向とでもいうべきものがあったようにも思う。
「トゥルケサ・コモ・リモン」では劇場のホールで
カナッペを配っていたし
「アルマリオ」では舞台上で着替えていた。
ピナ・バウシュに傾倒した
エバ・ジェルバブエナもそうだけど
才能のある人は何をやってもいいのだろう。
そうこうすしているうちに新しい道を
後からやって来る人たちへも開いて行くのだから。
ロシオの中にもいろんなところで
エバの影響がある。
開演前から舞台にいるというのは
エバの「5ムヘーレス5」を思い出させるし
彼女の動きの中にもエバがみえかくれする。
丸顔で小柄という肉体的な共通点もあるかもしれない。
丸顔で小柄という肉体的な共通点もあるかもしれない。
でもそれはロシオがエバをまねている、とかではまったくなく、
ほとんどのギタリストにパコやビセンテの影がみえるのと同じこと。
もう5年以上も前になるだろうか。
「エバは好きだけど見るとまねてしまいそうでみていない」
と話していたロシオ。
でもそんな心配はなくていい。
エバにはエバ
ロシオにはロシオの個性がある。
どんどん変わって行くロシオから
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