©︎Lolo Vasco Festival de Italica |
タイトルは盗まれた踊り。16世紀の踊り続ける流行病の話(Wikipedia)にインスパイアされたとのことで、自分の意思とは関係なくただただ踊り続けるというそのイメージは十分に伝わってきたし、フラメンコの踊り手たちが、ダンスのための身体能力、表現、舞踊全般のテクニックをしっかり身につけているというのもよくわかる。
クラシックバレエの技術を前提としたコンテンポラリーダンスのことをネオ・クラシコとスペインでよんでいる(日本ではネオ・クラシックというのかな)のだけど、これはフラメンコ/スペイン舞踊の技術を前提としたコンテンポラリーダンスなのでネオ・フラメンコとでも呼ぶべきではないか、と思ったりしたことでありました。
こういうくくりがいいか悪いかは別として、ロシオ・モリーナやイスラエル・ガルバンの作品にはそういう感じのものありますよね。ストレートなフラメンコ曲を曲として踊らないもの、もしくは音楽としてフラメンコが出てきてもそれを部分的にのみフラメンコの技術で踊るもの、またフラメンコを音楽としては出てきてもフラメンコの技術ではなく踊るもの、とか、増えていますよね。ロシオ・モリーナの『カルナシオン』のようにアーティスト自身もこれはフラメンコじゃない、ということもあるし、イスラエルやロシオがフラメンコではなくダンスの公演シリーズとして上演されたりも。
イスラエルやロシオはフラメンコをベースとした舞踊家という感じで舞踊として舞台芸術として評価されていると思うけれど、フラメンコは彼らにとっても、他と一線を画す、確かな個性として評価されているのだと思います。たとえ、フラメンコ・ファンがフラメンコじゃない、という舞台だったとしても。
今回のダビの舞台は今年ヘレスで見たワークインプログレスがベースになっているような感じで、幕開きの手を組んで輪になったりする群舞をはじめ、あ、これあったな、と思うような動き/場面が多くあったのだけど、進化して、より充実したかというとどうだろう。同じモチーフの繰り返しみたいなものが多く、間延びしてかえって変化が乏しくなったような気もします。起承転結みたいな流れやドラマも見えてこないし(それが必ずなくてはいけないということではないですよ、もちろん。でもそういうのがあってもいい)、ヘレスの時のような凝縮された感じもない。野外の、開かれた劇場で、客席と舞台が遠いと言うのもあるのかもだけど。
また、ダビ・ラゴスのムイ・フラメンコな声が、歌があるのに、歌を踊らず、BGMもしくは効果みたいにしている感じがしてもったい無い。ずっとフラメンコを踊ってきているから飽きるとかもあるのかなあ、フラメンコじゃない曲で踊りたい、フラメンコ曲でも違ったアプローチがしたい、違う自分を見つけたい、ってことなのかなあ。でも、機械音よりもヘレスで聞いたラゴスが奏でるパーカッションのような自然音の方がいいし、もっとフラメンコを大切に、効果的に使った方がよりよくなるんじゃないかなあ、と思ったことでした。
私にとっては盗まれたのはフラメンコ舞踊だったような。バイレが盗まれダンサが残った、と言うか。
作品としての仕上がり、というか、外見はいいのだけど中身にもう一つ何かアピールしてくるものが欲しかったかなあ。踊り自体はすごいんだよ。アンサンブルもいい。でもその先というかその奥というか、が見たい。それを通じて何かを伝えてほしい。昔々、踊り続ける疫病がありました、それで終り、というんじゃなくて。まあ、個人の感想ですが。っていつもそうだね。
ダビを好きだからこそ、もっと彼の魅力が見えるような舞台にしてほしい、と言うわがままな願いでございます。
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