2023年6月17日土曜日

エスペランサ覚書

 日本ではフラメンコ公演からも遠ざかった毎日だったのですが、帰国間際に高円寺のタブラオ、エスペランサに2度ほど出かけてきました。

エスペランサは、高円寺の昔ながらのアーケード商店街を南下しモスバーガーの手前を右折、西友の向かいにある小さなお店。1971年開店の老舗でしたが創業オーナーが亡くなり一時閉店したのを受け継いだ踊り手で歌い手で手拍子専門家でもある現オーナーが引き継ぎ、黒を基調としたモダンな内装に改装。2021年リニューアルオープンしました。

日本人アーティストの公演が主に行われていますが、来日したスペイン人アーティストが出演することも。誰もが気軽にフラメンコを楽しめるフラメンコの店、タブラオではありますが、フラメンコ愛好家が集まる愛好会、ペーニャ的要素もあり、また小さいながらも本格的な舞台は小劇場的でもあるという、唯一無二なフラメンコの場所であります。


6月3日 ラス・フレサス(いちごちゃんたち)



とても素敵な公演でした。

昭和の終わり、新宿は歌舞伎町にあったタブラオ、ギターラで共演していた3人の踊り手たち、チャリート、ロシータ(大塚友美)、パロマ(小島慶子)による舞台であります。


三人の親密さが観客にも伝わってきます。毎日のように一緒に舞台に立っていた日々があるから今はなかなか会えなくても会えばすぐ昔に戻る、というかんじなのかもしれません。

3人ともお客様を楽しませようという気持ちがあるように思うんですね、そして舞台を、フラメンコを、心から、全身で楽しんでいるという感じなんですね。


いやあこれが結局基本なのでは?


自分のフラメンコをひたすら追求するのもいいけれど、お金を払って観にくる人がいるならばそれを意識するということも必要なのでは? どちらかを選ぶ、のではなく、両立もできるのでは、などとも考えたりしたことでした。


踊り手たちがパルマ叩いて歌うハレオ(フラメンコ曲目のハレオではなく、全員が舞台に座っているクアドロで、曲と曲の間にブレリアやルンバを合唱するもの)は、もうスペインでもなかなか見ることができなくなってしまっているけど、グループの一体感が出るし、とにかく楽しい。30年前はまだコラル・デ・ラ・モレリアのクアドロとかでやってたけど今はどこのタブラオもアトラクションというか、それぞれがソロを続け最後、フィン・デ・フィエスタでしか一緒に舞台に立たない(たまにプレゼンタシオンというか最初にちょっと絡むこともあるけど)というのが普通になっているので超貴重。

また二人で一緒に踊ったり、というのもスペインのタブラオでもなかなかないよね。いわゆる合わせもの、ですね。ロシとパロマのタンギージョはオーソドックスな振り付けなのだけど、古き良き時代のフラメンコが香り立つよう。もちろんソロもあって、チャリートのタラントにはマノロ・マリンの面影があったりしてノスタルジー刺激されまくり。ロシのガロティンはよくある帽子のガロティンではないのだけど、昔の、元々のガロティンのユーモア/おふざけ感が現代的に再現されている感じもあって、いや、これ、スペイン人に見せたい。帽子の伝統の振り付けもいいし、そこから帽子の扱いを工夫したアンヘレス・ガバルドンみたいな人もいるけど、これはその一歩先をいくような気がします。いやあよかったなあ。

そしてパロマ!この人と出会ったのは34年前のセビージャ。で、ほんと、すごく久しぶりに見たわけなのだけど、とにかく体使いがすごい。デテールもすごい。昔からこんな風に踊る人でしたっけ? だとしたら昔の私は何にも見えてなかったんだなあ。本当にすごい踊り手だったんだと改めて確認。身体コントロールあってこそ思いが伝わるんだな、とか思わせられる。



あ〜色々昭和だけど、昭和って素敵、昭和ってすごい、ってベテランの踊り手さんたちの底力を堪能した一夜でございました。



6月10日 影山奈緒子『Aquí estoy yo』

3日の公演が古き良きタブラオの魅力を感じさせる公演だったのに対し、こちらはタブラオという空間を小劇場としてとらえたとでもいうのでしょうか、ミュージシャンたちやビデオなどの力を借りて自分の世界、自分の宇宙を描いていく。


一つ一つの曲を、踊りを、丁寧に丁寧に踊っていくのがすごくいい。マノが美しくてドキッとする。一つ一つの曲で、また全体を通して、踊り手が伝えたかったメッセージがこちらに全部正確に伝わったかというどうだろう。一曲一曲に込めた細やかな想いまできちんと受け取れているという自信は正直ない。でもフラメンコという表現方法で伝えたい何かがある、ということは伝わってきたし、同時に、彼女がフラメンコと、そして自分と真摯に向き合っていること、そこに嘘がないこと、覚悟をもってこの一夜を踊っていること、なども感じられてきました。

振り付けをなぞっていくような踊り、フラメンコを演じようとしている踊り、などとは一線を画すもので、これはもうフラメンコを踊ろうとしているのではなく、もうフラメンコが自身の一部となっている一人が自分を表現しようとしている、とでも言ったらいいのかな。


だからアレグリアスは軽秒にグラシアで、などといったフラメンコを踊る時の常識も何もかも吹っ飛んでいるのも正解で、コンパスの中をたゆたうように、その瞬間を生きている、という感じ。

ミュージシャンたちを尊重し、彼らに任せるべきところは任せ、作ってくれた音楽を踊るのではなく、自分も一緒に作っていく、というような感じも、見ていてすごく気持ちが良かった理由の一つでしょう。ミュージシャンたちへの本当のリスペクトがあって、そして彼らもそれに応えて、素晴らしいパフォーマンスを見せてくれました。









よくある、一曲しか踊らない公演とは全く違って、その人の深いところまで曝け出すようなリサイタル。やる方は大変で、全部出して空っぽになったと思うかもだけど、いやいや、どうして、空っぽに見えてまだまだあなたの中にはたくさんの芽があって、伸びて行かんとしている、そんな気になる。次がまた楽しみ、と思わせてくれる公演でした。

小さなタブラオならではの濃密な関係性も悪くないけれど、これ、本当は劇場の、もう少し大きな舞台で、照明などももっと凝ってやるべき作品のようにも思えたことでした。

劇場は費用もかかるし、大変なのも本当だけど、ここまでちゃんと作っていくならぜひ、劇場にも挑戦して欲しいところです。












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