2017年10月13日金曜日

日本のフラメンコ 平富恵「Hokusai Flamenco Fantasy葛飾北斎の浮世絵世界」

10月11、12日の両日、日本橋公会堂で3公演が行われた平富恵スペイン舞踊団公演「フラメンコで綴るジャポニズムHokusai Flamenco Fantasy葛飾北斎の浮世絵世界」。
休憩を挟んで2時間超、最近、各地で展覧会が開催されるなどまたブームになっている?北斎の絵をモチーフに、日本語のオリジナル詩で綴っていくという力作、大作。
一見すると、立ち姿の美しい、たおやかな女性だが、その中身は勇気溢れる、男前なフラメンカだ。

最初にビデオで簡単な北斎の紹介があり、今日の作品のモチーフになった絵を見せる。

最初の場面は富獄三十六景。富士山をバックにグラナドスでクラシコエスパニョール。フラメンコだけでなく、常にクラシコへのレスペト、リスペクトを舞台で表現する彼女ならでは。

ゲストはかつてラ・ウニオンのコンクールでも優勝した、エドゥアルド・ゲレーロ。彼のソロは獅子図のイメージで。ジェルバブエナやアイーダ・ゴメス、ロシオ・モリーナ舞踊団で活躍した身体能力抜群のエドァウルドと津軽三味線の浅野祥との絡みが面白い。

続くギターソロはアントニオ・レイ。ミネーラ。技術はあるのだが、曲の構成とか、作曲としてみた場合は今ひとつか。洞窟の中で弾いているようなリバーブには辟易。

鳳凰図をイメージして、黄色のバタ・デ・コーラに青緑?と赤のマントンで平のカンティーニャ。黄色の衣装の胸から腰に付けられた飾りのせいかちょっとインド風にも見える。バタさばき、マントンさばきはさすがの安定感。本当に姿がきれいな人だ。

屏風七小町は、小野小町をモチーフにした7枚の絵、それぞれを踊り手たちのソロで表現していくというもの。グアヒーラ、ファンダンゴ・デ・ウエルバなどそれぞれに曲を変え、工夫を凝らした場面だ。
ここで初めて日本語の歌詞の内容が聞き取れた。それまでも歌われていたのだが、歌詞を聞き取ろうと集中しても聞き取れなかった。書かれて意味がわかる詩でも、歌われて自然に聞き取れるようにするのは難しい。フラメンコはスペイン語のものでも聞き取りはそう簡単ではないのだから普通? いや、でもそれではあえて日本語の歌詞にした意味がない。古風な言葉遣いということもあるだろうが、メロディに乗せて聞き取れる歌詞というところをもう少し考えても良かったのではなかろうか。。グアヒーラで聞き取れたのは、もともと普通の歌に近いメロディと、女性歌手、奥本めぐみの唱歌を歌っているような口跡の良さによるところだろう。あまりフラメンコ的ではないがかえってそれがここでは生きた。一方、この舞台の音楽監督をつとめた石塚は3公演の最終回ということもあって喉の調子が悪いのか、芯がなく音程も乱れがちで非常に残念。

休憩をはさんで百物語の小平二、番町皿屋敷、はんにゃをイメージした場面。ここでもそれぞれの絵を永田健、河野睦、久保田晴菜が踊るというもので、一部の最後の場面に重なる。絵のイメージの衣装やポーズなど工夫しているが、一部の最後と重なるところもあり、どっちかだけでもよかったかも。

春画として有名な「海女と蛸」は平のソロ。エロチックな原作の蛸はマントンに化け、ライトにして、コケティッシュに、ユーモラスに。こういうフラメンコが踊れるのは財産だ。

男浪女浪はフラメンコギターと津軽三味線の競演。浅野はここでもフラメンコに近づこうという姿勢を見せるのだが、アントニオは俺についてこい的姿勢を崩さず非常に残念。フラメンコギターと三味線の共演はこれまでにも行われており、25年以上前にカナーレスやカニサーレスもやっており、仕事で関わったが、どちらも彼らの方からも歩み寄っていた。アルティスタのキャパの問題?

雷神図はブレリアで。アンダルシア舞踊団的マリオ・マジャ的椅子に座って。畳み掛けるサパテアードはなるほど雷鳴のようでもある。

エドゥアルドと平の二人で踊るタラントは、パレハ的な絡みはほぼ皆無。ひたすら二人で同じ振りを踊り続ける。相手すら見ないエドゥアルド。これじゃ二人で踊る意味がない。パレハの振り付けができないわけでもなかろうに。これはおそらくエドゥアルド側の問題。いい踊り手だけど考えてみればがっつりのパレハってあまり踊ってないかも?

最後は青い衣装と白いマントンで波を現した華やかで非常に美しい場面で幕を閉じた。

スペイン人いなくてもよかったんじゃない?っていうのが正直な感想。二人ともいいアルティスタなのだけど、この作品ではミスマッチ?というか、どうしても彼らがいなくてはならない必然性が感じられない。
日本人だけで、日本的なテーマでも十分フラメンコで、スペイン人があえている必要はなかったように思うのだ。

また、日本語でフラメンコを歌うのが無しとは思わない。ジャズだってシャンソンだって日本語で歌うことで世に広まったと云う点もあるし、うまくそうやって広まってくれればむしろうれしい。
けれど、やるからにはきちんと歌詞が聴こえて理解できるように、なおかつフラメンコ曲から抜け出ないようにしてほしい。その二つをしっかり実現することが難しいのはもちろんわかるけど、そうしてこそ、日本語で歌う意味があるのではないだろうか。
スペインの、スペイン語のフラメンコでも歌詞とメロディが合わず聞き取りにくいこともある。発声や歌い方のせいでききとれないこともある。
でもだからと言って、日本語で聞き取れなくてもいい、というわけではないはずだ。
トライする気持ちは素晴らしい。だがだからこそより完璧を目指してほしい。

また群舞ではほぼほぼ全員が正面向いて同じ振りというのが多かったのも残念。自分のおどりだけに集中するだけでなく、群舞の振り付け指導も、というのはハードだろう。だけどやるからには、であろう。そして踊り手としてだけでなく、振付家としてのレベルアップへとつながることだろう。

とにかく美しい大作。制作はさぞや大変だったろう。お疲れ様でした。










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