「カルメン・アマジャ、ヴァレスカ・ゲルト、花柳寿々紫、マイケル・ジャクソン…ダンスはジャンル分けできないものだ。僕には彼らの舞踊のスタイルを解き明かすことはできないだろう。彼らに見るものはエネルギーを生み出すタービンであり、このことが僕に考えさせるのだ、踊る同じエネルギーにおける振り付けの重要性を。おそらく重要なのは振り付けではなく、そのエネルギーなんだ。巻き起こるつむじ風なんだ。…」
ユネスコの国際舞踊の日である今日29日、イスラエル・ガルバンのオフィシャルメッセージ。最初の一節だけ訳したけど、いやいやじんとくるメッセージです。
ちなみにスペイン語はここにあります。
「すべてを巻き込んでいくテスラのボビンを想像する。癒しの光をだし、身体を変身させる。ピナ・バウシュは信心深いカマキリに、ライムンド・ホーゲはごますりカブトムシに、ビセンテ・エスクデーロはナナフシに、ブルース・リーはムカデに。
最初にデュオで踊ったのは僕の母とだった。母は妊娠7ヶ月。オーバーだと思うかもしれないけれどね。 ほとんどいつでも一人で踊ってきたけれど、僕には僕の“バイラオール・デ・ソレダーデス孤独の踊り手”という役割を辞めなきゃという亡霊がまとわりつく。ディディユーベルマンがいいたかったのはソレアレスではないのだ。
小さい頃から踊りは好きじゃなかった。 でもそれは僕の中からでてくるもので、自然でたやすいことだった。ほとんど本能的なものだった。時がたつにつれ、踊ることは癒すこと、僕には効果がある、医療みたいに。僕を内向的過ぎじゃなくして他の人にも開いていくことを助けてくれた。エボラにかかったこどもが踊って治している映像を見た。それは迷信だって知っているけど、それもできるかもしれない?
後に、舞踊は強迫観念となって、時間をとり、僕がじっとしているとき、動いていない時ですら、現実から離れているようにまでなってしまった。それがいいのか悪いのか、必要なことなのかわからない。僕の娘のミレナは、僕がソファに座って考え事をしてふんふんとやっているときにいうんだ、「パパ踊らないで」って。
だって人々が外を歩いている、タクシーを止めようと動いているのを見る。それぞれ違った形、スタイル、ゆらぎをもっている。みんな踊っている!わかってないけどみんな踊っているんだ!僕は叫びたいよ。まだ知らない人がいるんだ!僕らはみんな踊っているんだ! 踊らない人は運が悪かった、死んでいて感じもしないし苦しみもしない!
フュージョン融合という言葉が好きだ。マーケティング上での言葉ではないよ。それはあるスタイルを売る為の誤解であり、ひとつのブランドだ。いい融合は核の混ざり合いだ。カクテルシェーカーにフアン・ベルモンテの地に張り付いた足とイサドラ・ダンカンの空中の腕、『グーニーズ』のジェフ・コーエンのお腹の揺れをいれる。これらの材料からできる飲み物は心地よく強烈で、おいしいか苦いか、頭にがーんとくるか。僕らの伝統もこの混ざり合いなんだ。僕たちはカクテルからやってきた。正統主義者はその秘密のレシピを隠したいんだ。でもそれはできない。人種も宗教も政治信念も、全ては混ざり合う!みんな一緒に踊れるんだ!ぴったりくっついてではないかもしれない。でも隣り合ってね。
中国の古いことわざにこういうのがある。蝶の羽ばたきを遠い世界で感じることができる。日本で蠅が飛んだ時、カリブにタイフーンが大雨を降らせる。ペドロ・G・ロメロが圧倒的なセビジャーナスの踊りのあとで言った。広島に爆弾が落ちた日にニジンスキーはオーストリアの森で大きな跳躍を繰り返したって。僕は想像し続ける。セビアン・グローバーのステップがミハイル・バリシ二コフを回転させる。その瞬間、大野一雄はじっと動かずマリア・ムニョスに電気を送る。彼女はボンラッド・ファイトのことを考えていて、アクラム・カーンにその楽屋で自身をおこさせようとしている。彼の鈴が動いて、床は疲れた汗で染められる。
国際ダンスデーに僕はこの言葉を今この瞬間に踊っている人誰にでも捧げたい。でも冗談と願いを許してくれるなら、ダンサー、ミュージシャン、プロデューサー、批評家、プログラムを組む人たち、僕たちみんなでフィン・デ・フィエスタをしよう。ベジャールがやったように、大きく、ラベルのボレロを踊ろう。みんな一緒に踊ろう。」
これまでの彼の作品からのシーンをちりばめたビデオのリンクはこちら
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