20日、21日と日本フラメンコ協会主催新人公演をみてきました。
はい。一時帰国中です。
ほんとうはこの前にスペインに帰るつもりだったのが
スペイン空港職員スト予定とかで1週間のばして
思いがけずみることができたのでした。
実はこれが初新人公演。
これまでは日本にいなかったか
いても仕事と重なっていたのでありました。
金曜は用事で見ることができなかったのだけど
土曜日曜。4時間ずつしっかり拝見させていただきました。
長かった。
でもおもしろかった。
ツイッターにもkioko svq で
新人公演おもしろかった。みんな一生懸命自分の好きなもの追っかけるのがいいね。本質見つめている人は今は思うようにできなくても明日が輝くよ。賞とるとらないよりもそっちが大切。んで自分の今を知るためには最高の機会だと思う。がんばれ。フラメンコを愛する人たち
って書き込んだけど
みんな一生懸命自分が好きなものをやりたくてがんばってるんだな、
って改めて感じた。
いいね。熱いね。
「新人公演は優劣順位をつけるためのものではなく、新人へのエールを送るために存在する」
ということなのだけど
賞がある、から
結果的にコンクール的な要素もあるというのは否めない。
でもこれはやっぱ新人“公演”なんだよね。
舞台に出る一人一人がこの日をめざしてつくってきた曲を披露する場。
うまい人も。まだそれほどうまくはない人も
みんな同じ土俵に立っている。
それぞれに自分が好きな
自分が得意な
曲と真剣に取り組んできた結果をみせるところ。
舞踊でいえば
その人の舞踊そのものだけでなく
振り付け、衣装、音楽、照明
そういったものすべてがでてくる。
こった構成、照明の“作品”もあれば
シンプルな、素のままのような踊りもある。
賞は何を評価してのものなのだろうね。
そういったすべてのもの?
その人の才能、将来性?
完成度?
フラメンコ性?
それは審査員ならぬ選考委員の方々、
一人一人で違うかもしれない。
ウエブに掲載された以前の公演の、各委員の評をみても
みかたも、何を基準にしているかも
それぞれ違うようにみうけられる。
そしてそれはそれでいいのかもしれない。
スペインでもコンクールの結果に
出場者、審査員、観客、
全員が納得するなんてことはめったにないしね。
フラメンコに対する考え方はさまざま
あれもフラメンコ これもフラメンコ
みな自分がこれだと思うフラメンコを好きになり
それをおっかけていく。
誰もがこれだ!
と思うフラメンコっていうのもないではないだろう。
でも結局趣味の問題。
昔風が好き ヘレスが好き モダンが好き
派手好み 渋好み
フラメンコが好き
踊ってる自分が好き
。。。
なんだっていいんだね。
でみんな自分の好きなフラメンコが絶対だと信じてる。
テクニック、表現力などの優劣をみるだけなら
課題曲でもだして、もっと短い時間で十分。
歌やギターなら音程、コンパスはもちろん、
歌ならメロディの正確さや声の強弱の使いかた、声のだしかた、発音
ギターなら曲の構成やテクニック
舞踊なら
コンパス、コロカシオン、ブエルタやサパテアード
などなど細かいところはわりとすぐにはっきりみえるものだ。
極端にいえば
のど自慢の鐘ひとつで退場、
や
コルドバのコンクールの予選のように最後まで踊らずにお引き取りください、
(少なくとも以前はそうだった。うまい人もうまいとわかれば、だったかもだけど)
みたいにしたっていい。
でも
そうじゃないんだよね。
これは新人公演。
個人的には
賞なんてなくていいのかもしれない。
と思うよ。
あの大きな舞台でたくさんの人にみてもらうこと、
選考委員や
みにきたお客さんやともだちや
いろんな人のいろんな意見をもらうこと自体が賞だしね。
それでも賞がある。
いろんな意見がある中、多くの注目を集めた人ということなのだろう。
これからプロに、という人の励みになるんだろうね。
でもそれがすなわちプロのライセンスでもない。
実際、私見でも
受賞者の方は健闘されたと思うけど
受賞しなかった人でもそれに劣らずよかった人もたくさんいたしね。
ラ・ウニオンのコンクールで
舞踊部門の決勝にもすすめなかった
ロシオ・モリーナ
その数年後ゲストで公演、
コンクールで踊ったタラントを同じ衣装、振り付けで踊ったという例もある。
賞イコール成功でもないし
問題はその大きな舞台で演じた自分を
どれだけちゃんと客観的にみつめることができて
次のステージに進んでいくか、ということだと思う。
えらそうにごめん。
でも私はそう思う。
だから賞とれなくても嘆かずに
前むいて進んでいこう。
そして運よく賞がとれた人も
自分の実力を過信せず
前むいてすすんでいこう。